2019年12月28日土曜日

足踏みミシンでデニムジャケット製作記 4/4 静かにフィナーレ やったぞ完成編!!

今年も振り返るるとネガティブニュースに振り回された一年だった。自分の書いたのを読み返したら、自分ながらネガティブなムードがぷんぷんする。修練が足りない。

深層ではいけない傾向だとは感じつつ、年の瀬に思うのは、来年こそはポジティブ路線を標榜したい。(と思う。そして希望。)

年内の出来事を振り返るほどの余裕もない毎日で、こんな暮らしはよくないと思いつつ、忙しさの合間を縫って、ボタンホールを仕上げにかかった。と、いっても専門業者へ持ち込んでお願いする。

糸の色も選べるようだ。あまり悩むことなく、これでと指した色は濃紺というのか、チャコールグレーというのかそのあたりの感じだ。光線によって見え方は変わったりするからよほど生地の色と違うのならわかりやすいが、どちらかと言えば目立たない方の部類の色から選択した。



自宅に帰り、さっそくボタンを打った。
今年の総決算としてデニムジャケットが完成した。感動のフィナーレとなったことに、ただただ関係者や静かに見守ってくれたブログ読者諸氏に感謝したい。

いろいろと仕様をどうしようか、考えながらの同時進行で製作してきたが、迷いながら、失敗し軌道修正しながらの「完成」と言っていいだろう。


要所に耳使いしたので赤いラインがポイントになった。よくある仕様ではあるが、このセルビッジ生地の耳使いは個人的に気に入っている。


襟の内側。直線で縫うようにした。(購入したパターンの原型を変更した)
あと、カフス内側、見ごろ前立て内側、ベルト布内側をセルビッジ耳使い。



革パッチのステッチは返し縫いせず、襟側から始めて一筆書きで襟に抜けるようにした。ビンテージで見られる仕様を参考にした。後ろ見ごろもオリジナルデザインを変更してTバックにし、タックを付けた。今回のセルビッジ生地の幅が71センチだったので、ギリギリ取れなかったために2分割したのだ。


バックルベルトというのだろうか、調整ベルトを付けた。これもオリジナルパターンにはないもので適当に自作した。尾錠は針なしのものである。針の尾錠は刺さると痛いし。

足踏みミシンでデニムジャケットが完成した!!


個人で作ったジャケット一着だけのボタンホールを快く受けてやってくれたボタンホール専門業の方にも感謝。まさか手縫いで仕上げるなどとアホなことを考えて一日かけてやってみたが、専門業のボタンホールを見たとき、速さ、正確性、使用糸の色選択、コストなどつくづく太刀打ちできないということがわかった。こんなことならもっと早くお願いするべきだった。

とても良心的な価格で対応してくださったことに感謝と同時にあまりにも思った以上に安くしてくれて恐縮した。ボタンホール業はこれからますます注目分野として期待されていることも知ることが出来た。いい社会勉強をさせていただいた。しばらく下げた頭を上げることが出来ないでいる。

今回、初めてデニムジャケット製作に挑戦したきっかけを与えてくれた、型紙の会社「Full Of Patterns」さんにも改めて感謝したい。この型紙のおかげで納得いくジャケットが完成した。補正もした、若干の変更も取り入れた。基本のパターンがあってこその完成だった。

デニムジャケットを軸にいろいろとできる限りの情報収集をして、パターンを購入し、材料をそろえ、ボタンホールをお願いしたり色んな人々に支えられて一つの作品が完成した。先にも書いたが、今年も色んなネガティブニュースがある度、世間はどこまでも残酷で、しかもいじめや暴力、事故などとめどなく毎日どこかで起こっている。本当にこんな悲惨隠滅な日常が当たり前なのかと周りを見回しても、そうそうそんな事態は起こっていない。

デニムジャケットを通じて言葉を交わした人たちは善良な一市民の皆さんだ。一人一人、時として苦労されることもあるかもしれない。人知れず色んな問題を抱えているかもしれない。しかし、まんざら不幸せなのかというと、そうでもなさそうに見える。見かけで判断できないかもしれないが、縁あって言葉を交わすことがあったなら快く対応してくれる善良な人々である。ものづくりを通じて関わった方たちすべての皆様に感謝したいのと、来年もよい年であることを願いつつ・・・。

完成報告のつもりだが、実際はこれから着用し、洗濯して洗い縮みも起こるし色落ちもするだろう。くたびれることもあるだろうし、経年変化による味わいが加わったりもするかもしれない。工業製品ではない、個人作品としてのデニムジャケットはどの時点が完成なのかという明確なものはないのだと思っている。ただ、一つの節目としての完成だろう。

これからしばらくは使ったミシンの整備と使っていないミシンの整備、次に使うであろう予定のミシンの整備、そして触りたい気分のミシンの整備清掃のシーズンとなる。そして、整備した後のミシンの再点検と整備、また、次に使う予定のミシンの整備した後の再点検と再整備など整備予定が目白押しである。何を言っているのか自分でもわからないが、要するに整備するのが待ち遠しい。

実は、まだデニム生地(セルビッジ)2mが二枚残っていて、デニムパンツを作ろうと予定している。合計4mあるのでもう一度デニムジャケット(春秋用)でもいいかもしれない。今度は2ndモデルなんかもいいかもしれない。

最後まで辛抱強く読んでくれた人に感謝。どうもありがとう。

おわり



足踏みミシンでデニムジャケット製作記 3/4 ほぼ完成か? 失敗もまた人生

とうとうたどり着いた。

袖、脇を縫い、カフス、ベルト布を縫った。

はやる気持ちを抑え、袖を通した。
まだ完成はしてないがほぼ完成したと言っていいだろう。ほぼ、カニ…とかほぼホタテ…とはちがう。ほぼタラバとかもあったような。

1つ1つ挙げるときりがないが、いくつもの失敗を乗り越えてたどり着いた。しかし、(ほぼ)出来上がったら嬉しさのあまり、失敗した苦労も報われる。


失敗のない人生はつまらないと思ったり、、実際に失敗だらけの人生だから、面白い毎日を過ごしているという自負がある。(これ、世間では負け惜しみというように思うが)




素人個人が初めて作るデニムジャケットなので仕上がりの程度は必ずしも良いかどうかわからない。写真を見て色んな意見があるかと思うが、俺としては丁寧に作ったつもりだが雑かもしれない。はじめてにしてはよくできたと自画自賛して、次の創作につなげたい。着てみて気に入らないところがあればまた作るまでだ。

何事も最初からできるはずがないと自分に制限をかけたら、できるものも出来ない。

目指すべきは、今よりもほんの少しの高い目標と、自分にできないという自己暗示での縛りをやめ、どうすればできるか、それ一心で取り組めば人生は何とでもなるんじゃないかとつくづく思う。

たかが、デニムジャケット。

足ふみミシンを始めたのは、デニムジャケットを目標にしていたわけではなく、単にミシンを整備したいからという動機だった。油を差し、整備して磨いた足ふみミシンで何をしたいというわけでもなかった。整備して磨くことに喜びを感じていた。(多分世間では変態という部類だと思う)

でも、結果としてデニムジャケットが(ほぼ)完成する。

市販のパターンを使った。完全な手作りではない。ハンドメイドと言ったりするのだろうか、たいていのハンドメイドとは材料を買い、組み合わせ、加工して別のものを作るということかと思う。

そもそも生地は買った。世の中の誰かが作ったものを誰かが売っていたので誰かから買った。糸だってそうだ。革パッチだって、真鍮金型を作ったけれど、真鍮自体は東急ハンズで買った。真鍮を彫るための道具もアマゾンやホームセンターで買った。 

ありとあらゆる道具、資材、原材料、その他もろもろの多くは誰かの手によって作られたものを使った。

何が言いたいのかというと、自分だけの力で完成させたわけではなく、材料は買い揃えたし、要するに誰かの力を拝借しているのだ。


そこらへんに散らばっていた道具類を集めて撮った。

一部なので、総動員するととんでもない。多分これの100倍くらいの物量があると思う。・・・100倍は盛りすぎか?きちんと数えたことはないが、相当あるぞ。

(ほぼ)完成と言いつつ、肝心のボタンホールとボタンがまだだ。

ボタン穴かがりを手縫いでできるか一日費やしてやってみた。

発表できるような内容ではないのでテスト結果の写真は掲載しない。いくつか試作したが、使えなくもないような「おっ!」という出来栄えの穴かがりもあった。しかし、まぐれに終わった。前5個、カフス左右1個ずつ計2個の大小合わせて7個の穴を均一にかがるのは難しい。2個3個と続けてみるが、うまくできない。これでは同じ品質のボタンホールにならず、不ぞろいすぎて目指すべきものではなくなる。自分には優しい自分でもさすがに自分を許すことはできないほど、どうしようもないくらいだ。これは俺自身の腕の問題である。

修行が必要のようだ。
今の俺の技量は合格ラインには及ばない。撃沈である。ある意味当たり前さ。一日でボタンホールがかがれるはずもない。ここはあっさりと降参して、最初に書いたニュアンスと真逆になったが気にしない。はい次。

職業用ボタンホーラーは買うと1万円近くするし、できるボタン穴のかがり具合は色んな情報から察するに期待するほどの大した品質ではないように思う。一万円の設備投資でプロ級のボタンホールが出来るなら誰も苦労しないはずで、穴かがり専門業の存在意義がなくなるはずである。しかし、専門業は存在し続けているところを考えると、絶対的な違いがあるのだということだろう。

また、今ある家庭用ミシンでもできなくはない。が、しかし、ここまで来て家庭用ミシンのボタンホールのクオリティーは今回のデニムジャケットのクオリティーと釣り合わないと判断した。手縫いも即戦力では無理、したらば、専門にお願いするしかない。

ここまで来て考えると、さも自分ひとりで作ったなどという表現は適当ではなく、嘘になる。デニムジャケットの(ほぼ)完成を見て、いかに自分ひとりで生きているわけではないという当たり前を痛感する。生きている限り誰かの世話になり、誰かに迷惑をかけていることを薄々感じているが、そんなはずはないと自分に嘘をついて暮らしているのかもしれない。

この次はとうとうボタンホールが仕上がり、ボタンをつけて、リベットを打ち、最終報告となる。今回のゴールを報告できることを幸いに思う。縫製の仕上がりとデザイン、仕様などを余すことなく発表できると思う。自己満足の最高潮と言えるかもしれない。自分だけの記録のつもりだったが、ブログという記録媒体を拝借して世間にも公表するということになりそうだ。

毎度、最後まで読んでくれた人に感謝。

2019年12月19日木曜日

足踏みミシンでデニムジャケット製作記 2/4 完成前夜編 また失敗

まずはみんな大好き、失敗の話から。

ご覧の通り、折伏せ縫いの為まち針を打つ。


これは袖山。この後地獄を見る。

いい気分で縫ったはいいが、後で気づいた。縫う位置を間違えている。

全行程およそ5,60センチは縫ったが、再びほどいて待ち針を打ち直し、もう一度縫い直すことになった。シングルステッチの縫い目をほどくほどしんどいことはない。これがチェーンステッチなら一発で解決するのだが、一目ずつリッパーでほどくことになる。

案外俺はこの手の失敗に懲りていない。わかる人にはわかるがわからない人にはわからない失敗でもある。これ以上書くとますます暗くなるので詳しくは書かないでおく。



「デニムジャケットの作り方」と検索してもほとんどがダメージ加工を施す内容ばかり。ジーパンもそう。みんな破れたジーンズがとても大好きなのね。おれは笑ってしまうけれど、人それぞれ勝手だもんね。

素人の洋裁、デニムジャケットを作っている人なんて見つからない。当然、そんなの出来上がった既製品を買うに決まっている。自分で作るなんて、ありえない。

実際のところ、どのくらい素人の人やそれら周辺の人たちがデニムジャケットを自作しているのか、正確な統計値がないので何とも言えないが少なくともここに一人いる。

奥様方で、洋裁の仕事をされている方が、プライベートで縫物をされたりすることもあるだろうが、デニムジャケットを作っているような感じは見当たらない。市販の本のパターンは売られているから挑戦している人は少なからずいると思うけれど、ネットで公表していないのかもしれない。

一部コレクターマニアなどは、様々なデニムの違い、ビンテージモデルや希少性高いものをコレクションしている人がいるようだけれど、だからと自分で作っているというような変態は見当たらない。

変態の生態系は未開である。

そもそも、デニムを作るのは何がいいかというと、生地を縫うときに針棒が生地をたたき、進むときの加減やあいまいな力加減次第によるステッチの不ぞろい感、絶対の予測がつかないところ感がたまらない。これに尽きるといって過言ではない。精巧なコンピュータ制御ではない、工業用ミシンのリズムでもない、足ふみミシンだけの感覚、これが何とも言えずよいのだ。

計算された範囲の及ばない、足ふみミシンの世界なのだ。


そしてこうなる。

あとは、裾から脇、袖を一気に縫い閉じる。そうすると、いよいよ袖を通すことが出来る。この仕上がりの瞬間もたまらない。

閉じたところの写真はこの次に発表する。完成間近。と言ってもボタンホールは一山ありそうな予感がしている。目下、手縫いボタンホールを研究中である。

現在の進捗は完成イブといったところだろうか。

今日も最後まで読んでくれた人に感謝。

おわり




2019年12月17日火曜日

足踏みミシンでデニムジャケット製作記 1/4 裁断・縫製編

今日私は、デニムジャケットを手作りしている愛好家と自称してこのブログを書き進めようと思っている。ジャケットづくり愛好家ではなく、ミシン愛好家かもしれないがどうにでも受け止めてくれていい。

定規にさしがねを使うところは木工DIYのDNA。(笑ってください)



シーチングで試作した。サイズ感を知るには試作するのがいいと実感した。生地代は300円程度分の生地量だった。

先日から、試作機を少し紹介したところでもあるが、何分初めてのデニムジャケット制作なので半ば手探りで進めている。シーチング生地で試作したが、あちこち失敗があったりして、縫い直し、何度かの失敗と縫い直しを繰り返してできた。

これはあくまでサイズ感を知るためだけに作ったのだが、袖を通すとまあまあの仕上がりになったのでこれをもとに本制作に入ることにする。

目標とゴールは必ず一致しないこともあるが、おおむね目指すべき方向は以下の通り。

①自分で整備した足ふみミシンを使う。今回はJANOME TA-761を使用した。
②パターンは今回初めて市販品を採用した。Full Of Patternsさんで購入した「デニムジャケット1st.タイプ」xxlサイズ。
③パターンを一部改良してサイズUPする。(補正ともいうらしい)
④オリジナル革パッチを縫い付ける。(真鍮金型も自作)←これ自慢。
⑤オリジナルタグを縫い付ける。
⑥パターンにはない後ろ見ごろのタック、調整ベルト、耳使い(襟、見返し、袖、ベルト)などの独自加工調整を行う。
⑦縫い代はロック始末ではなくすべて折り伏せ縫いにする。ポケット以外。
⑧細かいことは気にしないけれど、気にすることもある。縫い目はまっすぐにはこだわらない。仕上がりはどちらかというと雑かもしれない。売り物とは違う、自己満足の世界の美しさがわかる人にはわかると思うと信じて疑わない。
⓽愚問を承知であえて市販されるとするならいくらの価格を目指すか、、迷いもなく諭吉5人とする。(時給換算の人件費・材料費なのか、それとも作品としての言い値なのかというと後者である)

自称愛好家としては、ミシンのコンディションは常にスクランブル体制が整っている。
今回はSINGER188Uにするか迷ったが、返し縫いレバーのスプリング機構で手を離すと前進するという親切設計の大きなお世話に少しばかりヒステリックになりそうな自分が嫌でジャノメにお願いする。

ジャノメTA-761は返し縫いレバーは完全マニュアルなので手を放しても元に戻らないためいちいち前進する際は元に戻す必要がある。俺は急がないし、いちいちレバーを前進に戻す手間を手間と思わないこともありどちらかと言えばジャノメの方が自分の感覚に沿っているようで贔屓しているのかもしれない。


ポケットのふちかがりをしているところ。


ふちかがりの出来上がり。

ご覧の通り、ロックミシンは使っていない。専用のアタッチメントが生地を左右に振りながらぎこちないジグザグ基線を描いている。




1st.モデルの特徴の一つ、プリーツはなんでこんなデザインなのか、わからなかったがどうやら縮みを克服するためのものだという説に説得力を感じた。開発当初、生地の縦の収縮率が大きいこともあり着丈が縮む。そこで前身ごろの生地は縦を横に取った。着丈は縮みにくいが、胴回り、胸囲が縮む。それを解消するためプリーツにした。そして、ボックスステッチという仕付け糸レベルの切れやすい糸でしつけると縮んだところが糸が切れて開く。そう計算していたのではないかというもの。

今作の使用糸はダイヤフェザーポリスパン糸を使用したので糸切れなどはカタン糸(綿)とは格段に違い、強靭である。プリーツを広げて着るつもりでもないのであくまでデザインだけのものといった仕上がりになる。糸にこだわるときりがないので普及している手に入れやすいものを常用している。

パンツでもジャケットでもポケットがつくと少しずつ出来上がりに期待して喜びが膨らんでくる。


ヨーク。革パッチとフックを付けた。フック位置は後程再調整しなおした。(革パッチのデザインは一部隠したので深追いしないこと)革パッチのための真鍮金型と焼き鏝には素人ゆえの時間と労力だけは掛けた。自慢と書いたが、自己満足なのだ。



後ろ見ごろ。この次、先のヨークと合体。調整ベルトは全くゆがんだ。写真ではわからないし、洗えば全体が縮んでゆがむ(はず)なので気にしない。


いよいよ襟も付いた。今回の衿付けは一発でうまくいった。もう襟は制覇したと思う(嘘)。あとは袖、カフス、ベルト、ボタン、ボタンホール、リベットと続く。

当初、オリジナルで内ポケットとか、ネーム刺しゅうとか、スマホポケットとか考えもしたが、やめた。

大体の山場は超えたが、楽しみは少し先送りしようと作業を止めた。続きは次回に。

最後まで読んでくれてありがとう。

おわり


2019年12月12日木曜日

神戸の先生へ  大好物は辛いカレー

いじめの考察

先日、神戸のセンセのにいじめに関する持論を書いた。

前回も書いたが、「いじめられるやつにも落ち度や原因がある」という意見には賛成できないと言うスタンスに対して勘違いしているヤツがいるかもしれない。それこそ文句あったらかかってこい。正当な意見なら聞いてやってもいいが、どうせいじめる側の正当な理由などない。例外があれば知りたい。


私はどんなことがあってもいじめられる人の味方である。

だが、いけないのはいじめられたからといじめ返すことはいけない。いじめを受けたのだから、いじめはいけないと主張しないといけないのに、自分をいじめた相手にいじめの仕返し、これはやってはいけない。

もし、やり返してやりたい、いつか見返してやりたいという思いがあるなら、歯を食いしばってでも努力して笑われない大人になろう。いじめたやつ以上の幸せや喜び、栄冠を勝ち取ろう。

そして、いつの日か恵まれない人々にこれでもかというほどの幸せをおすそ分けする。そんな幸せな未来を思い描いてひたむきに生きる。

これが、いじめたやつに対する正当な対抗姿勢である。

いじめたやつはしょうもない人生を歩んでいる。いつもぬかるんだ道、水たまりがあって、歩きにくい。いじめている常習者はそんな世界が普通と思い込み、生きている。ゆがんだ、どうしようもなく貧しく不幸なヤツでそんな世界から抜け出せずにいる。残念なヤツと思えなくもないが、そうそう許してはいけない。どこまでも勘違いの思考を巡らせているのだろうと笑い飛ばそうではないか。

見て見ぬふりしてた神戸の先生に告ぐ。

自分のとった行動(見て見ぬふり)がいかに社会に悪であるのかをよくよく考えなおし、正直に公表してこれからの人生をどうして生きていくのか、教師として示していくことの十字架を背負う覚悟と決意を改めて考え、その考えを実行するために世間に発表しなさい。

俺は、これからもいじめの情報を見たらこのようなブログ発信をし続ける。多分、世の中のいじめは簡単にはなくならないだろうが、ニュースを見たり、思いついたとき、このような内容のブログを書く。いじめているヤツが読むと気分が悪いかもしれない、しかし、現在もいじめられている人は気分が悪いどころではない。何の落ち度もない彼らがいじめにあい、苦しい思いを持ち続けている以上、やめるつもりはない。

いじめるな。



最後に、

俺は世界中の辛いカレーを食べてきた。常識を超えた辛さを知っているし、大好物だ。いつでもかかってこい。

おわり











2019年12月8日日曜日

故障の多いミシン 開発者の苦労の恩恵 今日もミシンは調子いい

ミシンにまつわる話を中心に好き勝手なことを書いているブログです。

と言ってもミシンの詳細を手取り足取り話す内容ではないです。実用性に乏しい、役に立たない内容かもしれません。


散歩して思いついたことを書いたりします。雑記的な内容だと思います。

時に人を見て、時に自分のことを考えています。人がいるから自分を客観視できるのかもしれません。人対自分。

自分自分と書くと、お前のことなど誰も見ていない、気にもかけていないと言われればそれはその通り。

散歩して歩きながら、信号待ちで、歩道橋を渡るとき、いつも歩きながら考えています。

答えを求めて、求めているからと答えが導かれるわけでもないことも多く、答えを求める行動、思考自体を何度も繰り返し巡っているのではないかと思うほど、どうしようもない、しょうもないことを考えます。きっと、その時々の発露は人から見られると???というようなものでしょう。

写真を挟むと読み手の人も読みやすいでしょうか。もう少し写真を増やしたいと思うのですが面倒でついやめてしまいます。従って見栄えも悪いです。つたないかもしれませんが文章を書くことを優先しています。

見栄え悪く、どんなに読まれないブログでも、自分に言い聞かせるという第一目的があるのかもしれません。自分のため・・・自分と。

よく、誰かのために、誰かのことを思って、、と聞くことがありますが、果たしてそうでしょうか?

誰かのことを思って、よかれと思って・・・。

「自分」が誰かのことを思っているのです。

私は私のために行動している、行動することが、私のためになり、ひいては私にまつわる人々、家族や身内、社会にかかわっているのだと思うのです。

衝撃的な映像と悲しいニュースが巷にあふれかえり、まるで暗黒の不幸ばかりかと錯覚してしまうような情報が当たり前になり、世間ではドラスティックなことばかりに神経をすり減らしていないでしょうか。こんなに世間の不幸ごとを正確な情報とばかり聞かされ、見せられる。


皆さんは本当にこんなに人の不幸を見たいのでしょうか。皆さんは人の不幸ごとを見て自分の抱えているいら立ちを沈めているのでしょうか。

人の幸せを喜べない、むしろ人の不幸ごとを願うような陰湿な精神にむしばまれてはいないでしょうか。

すべては自分の中にあるのではないでしょうか。

通常、ミシンというと、仕組みは上糸で下糸をすくって縫っています。上糸、下糸それぞれの糸調子の強さ加減でバランスを取り、表裏きれいな縫い目になるようにします。上、下どちらか一方の調子が強すぎたり弱すぎたりするとうまく縫えないし、縫い目がきれいにはなりません。

考え方は簡単ですし単純なのですが、ミシンという機械は精密なのです。ちょっとしたことで縫えなくなることもあるのです。少しの埃や、たった1滴のミシン油でも違うことがあります。

糸自体の特性の違いもあるだろうし、上糸と下糸の種類やメーカーが違っても問題が生じることもあります。

縫える生地の厚さ、重なり、生地の性質、生地の織り糸など色んな環境条件すべてにおいてバランスや相性があるようです。

話は戻りますが、考え方は単純です。大体においてバランスも簡単に取れます。しかし、まれにうまくいかない時があるのです。そして、うまくいかないときに思うのが、ミシンのせいだと初めに思うのです。

私も不具合に遭遇すると何度もミシンが悪い、ミシンに原因があるのだと思いました。ミシンが原因に決まっている、このミシンをどうにかしたら解決するはずだ。古いミシンだし、いい加減だめになったのだろう。新品ミシンを買いたいなぁ~。などと、アクシデントが続くときそんな風に考えていた時期もありました。

機械や人のせいにする。機械が壊れている、こんな機械を作った人が悪い。極端ですが、まあこんな風に。

ミシンにしたら迷惑な話なのです。

実は、多くの問題の原因は自分の癖だったりすることや原因の元をたどれば自分のミシンの扱いが原因なのだということも少なくないです。

確かにミシンは精密機械ですからメカニカルな部分で故障することもあります。さすがに基盤故障したりするとどうしようもないでしょうし交換することになります。それほどの故障と違う、調整・整備レベルの問題はまず、自分の扱いの癖やちょっとしたことに問題の原因があるのかと感じるようになりました。

壊れない、故障が少ないミシンがよいとされます。家庭用ミシンは最近はコンピューター制御なのでさらに精密です。自分の癖がそうさせたかどうか、もともとのミシン自体が精密なので余計に原因の特定は難しく複雑化しています。

世間で色んな出来事や問題が複雑化しているのも、ミシンの構造がより複雑化しているのと並行しているようにも思えます。

今使っているメインのミシンは約60年ほど前のものです。当時はコンピューターなんてもちろんないし、機械工学の領域です。直線しか縫うことはできませんが、今でも元気に動いていますし、縫い目も悪くありません。むしろ、よいです。

直線だけを縫うためだけのミシンですから、60年たった今でも現行機のミシンと比較してもおそらくですが直線だけなら見分けがつかないでしょう。つまり、60年ミシンの進化は進んでいない、いや、直線を縫う能力に限っては変わらない。では進化していないかというと、もちろん進化しているのです。ご存じの通り、足ふみではなく電動モーター、針停止位置、自動糸切り、押さえ圧の制御など、コンピューター制御によるものです。これらのほとんどは直線を縫うという機能にはあまり関係していないところの機能であるように思います。

色んな機能が開発され、複雑になり本来の縫うという目的に関する周辺のことについてとても使いやすくなっていったのでしょう。

直線だけなので、複雑な構造ではないことも故障が少ない要因であると思います。ひたすら直線だけを縫うことだけに徹している、そんなヤツなんですね。

時代とともに進化し続けるミシンで色んな楽しみが広がり、そしてアクシデントや故障に遭遇して修理費用と天秤に買い替えるサイクルはどんどん早くなる。メーカーや関連企業の人たちは生き残りに必死なわけです。残念ですが私はそんな方たちからの嫌われ者。
なのかもしれません。

ただ、そんな私でも当時の開発者やブランドにかかわった方にはとても尊敬の念を抱かない日はありません。60年も前のミシンですから80歳以上あたりの方たちでしょう。彼らの様々な労力、犠牲、開発に掛ける情熱、間接的にかかわった方、その家族に・・・そうしたすべての人々から受けた恩恵に、ただただ感謝。








2019年12月4日水曜日

大人のいじめ  自分の胸に手を当てて  神戸の先生

神戸のいじめ先生のニュース、大人のいじめを考える。

いじめ自体、大人子供関係なく存在している。

いじめ…と検索したら子供についてのものだったりすることが多く、大人のいじめが少ないと錯覚しそうになった。しかし大人にこそいじめの連鎖原因を解決できない根深い闇がある。子どもはそんな大人の姿を見ている。


いじめられる側にも問題がある、という論調の意見があるがいじめる側の自衛でしかない。いじめる方が悪いに決まっている。特にいじめているという認識の欠如は人格的に当人の何らかの障害や本人自身の心の問題があるのだろう。


世間の風潮はいじめは悪とされながら身近に起こっているいじめがいじめだと認識出来ないのか、知らん顔するのもいじめていることと道義的におなじだ。

つまり、はたで見てた先生方もおなじである。まさか、こんなに騒ぎになって、初めて気づいたというならますます悪である。教える師が、模範となるはずの行動とは真逆の結果を導いたことはとても残念な現実であった。こんな現実は知らずにいたかったが、テレビの視聴率が取れるし、ゴシップ雑誌も売れるし、評論家先生も仕事が増える。世間は格好のネタを見つけ、しばらくの間は騒がしいだろう。

聖職者の罪はいつだって存在している。今回の神戸の先生たちだけではないが、見せしめにはなったろうし、抑止力としては一定の効果はあるだろう。いじめられている諸君に告ぐ。少しだけ今よりも明るい未来があるのだということを。

中学生の時、同級生の女の子がいじめられていた。男子生徒が少しずつ騒ぎ立てた。

女子生徒は生まれつき体臭が強い子で、思春期になりさらに体臭が増したのかもしれない。大人の香りが漂っていた。俺は特段臭いなどと思うことはないのだが、他の男子生徒が「臭い」と言い出す。つられたのかほかの男子生徒もひそひそ声で悪口を言い出すヤツが出始める。

そんな残念な状況が続いて、俺は見て見ぬふりをした。優しく声をかけることもできなかったが臭いなどということは言わなかった。ただ、傍観者としていじめられている女子生徒を守ることすらできないで今思うと、結果的にはいじめていた男子生徒の片棒を担ぐような態度だといわれても仕方がないことだった。俺は、毅然と男子生徒に注意するべきだった。

ある日、女の子は担任から促されクラス全員いる教室の前で自分のことを話し始めた。

体臭は自分のせいじゃない。
臭いと思うかもしれないが、いじめないでほしい。
正直に話すととてもしんどい。家で家族に相談したし今でも悩んでいる。

そう、みんなの前で打ち明けた。

話し終え、しばらく静まり返った。

そのあと担任が何かを言ったかどうかは記憶にないが、彼女の思いを打ち明けたあの時の気持ちは今でも忘れない。どんなにつらかったろう。

読書が好きで、本の話をしたことがあった。すでに到底及ばないほどの読書家だった。知性ある女の子できらりと光る魅力があった。

中学生のころ、到底女子と気軽に話すこともほとんどなかったが、今更ながら話をする機会もないし何も力になれなかったという残念な自分。

女の子は神戸の先生と同じ、だれも助けてくれないと絶望したかもしれない。俺は助けることが出来なかった。

今更ではあるがせめて、自分の罪を発表し、今後これを読んでくれた善意ある、心意気ある青少年、社会人、全世代の人々に言いたいのだ。いじめるな。傍観するな。

もし、今現在いじめられているのなら、決してあなたは悪くない。毅然とした態度で間違いない。傍観していた俺のようなヤツがもしかすると味方になってくれるかもしれない。わかってくれる人は必ず存在する。

いじめる側の心理はいろいろあるが、自分自身の弱さから人を攻撃するというのが基本だからいじめる側は既に破綻しているのだ。

いじめられる側にも何らかの非があるという意見の人、自分の胸に手を当てて考えてからものを言え。

俺は、今更遅いかもしれないがあの時に助けることが出来なかった女の子に今でもわびたい。どうすればいいのだろうかと時折思い出す。

・・・・


もっともらしい、正義を振りかざした内容だったつもりが、自分自身が断罪されるのだという事実を発表したかったのかもしれない。

生きながら、誰かを殺し、傷つけ、自分は素知らぬ顔の毎日。



最後まで読んでくれてありがとう。

おわり









2019年12月3日火曜日

Gジャン 1Stモデル制作 失敗と高付加価値と平日画家

ジージャン1stモデルのための試作2号機だ。

試作初号機の失敗を省みて胸囲、袖の開き、全体のバランスを考えて各所をサイズUPした型紙を作った。これを再びシーチング生地に写して2号機の制作に入った。小さな失敗はいつもながらにあったが、すばらしい修正力を持ってして試作2号機の完成を見た。

何が完成か、成功したかどうかについては俺自身の内的な問題である。
今回のGジャン制作にあたって、自己流のミシン縫製による個人的創作現場の独白だろうと思ってくれ。

失敗箇所は写真で見ての通り。(見たところで写真が小さいのでよくわからない)




完成を目指してこれまでやったことない「試作」という工程を取り入れた。いままでジーパンはぶっつけ本番で作っていたので出来上がると丁度良いいサイズが、洗うと縮むので予想外に縮んだのには面食らったこともある。そんなことも考えず、ご機嫌さんでせっせと作ってみてはいて洗って縮んでしまう。

当たり前といえばそうなのだが、生地の個体差もあるしそもそも防縮加工などしていないだろうし、いわゆる生デニムなので縮むは当たり前なのだ。

縮みを調べるためのテストをするほど生地の余分がない。余分に買えばいいのだが余分の生地代をついケチってしまう。根本的な問題であり、職業ではない創作の世界と言えば聞こえはいいがただのケチなのだ。いや、ここは始末していると言い換えておこう。



試作なのでカフス、ベルト布は縫わない。ボタン、ボタンホールも作らない。あくまでも全体のバランスとサイズ感を知るためだ。一部ステッチと袖の開きの仕様を確認する必要があったので試作しながらテストしたりもした。

袖を通してみた。

おおおおっ、サイズ感はいい。この補正したパターンでおおむね本制作にとりかかっていいだろう。

ただ出来上がった2号機を見て、反省点として抽出した課題が以下の通り。

①折り伏せ縫いの重なりの厚みが難しい。特に袖付けのカーブなどが多い部分。
②今回もいくつかの箇所でセルビッジ(耳)を使う。そこには折り返ししない。
③後ろ見ごろの切り替え部について、いわゆる1Stモデルは一枚布で仕上がっている写真をいくつか見たが、今回使用するパターンは1Stモデルと言いつつ、切り替えされている。パターン屋さんのオリジナル1stモデルといったところだろう。本作はもう少しビンテージ1Stモデルに寄せるよう一枚布仕様にするべきか思案中。
④市販パターンをサイズUPしたことによるポケット位置の適正配置が必要である。
⑤後ろ見ごろのプリーツ(ダーツというのか)部分の仕様ももう少し何とかしたい。

プラスアルファ、ほかにも挙げる事柄はあるが、仕上がり発表を予定しているのでその時に書こうと思う。



セルビッジにも色んな色があるようだ。今回予定している生地。


今回掲載した写真は最近買ったスマホのカメラ、ファーウェイP30liteで撮影した。広角レンズ、画角がワイドなのがいいと思う。

中華スマホだが、高性能で文句なしのスマホだ。なんでも中華製を品質の低い代名詞になっていた時代だったことを思うと、もう時代はとっくに中華製万歳の状態で、世界基準の目で見ると日本産を謳う営業スタイルはぼやぼやしているうちに笑われてしまっているのではないだろうか。

高性能、高機能、高価格帯の良い製品だけがちやほやされるのではなく、ほどほどの性能や機能でも安くて買いやすい、ハードルの低いものが世界的には評価されている一面がある。

日本製、Made in JAPANなどとアピールしているが冷ややかに見ている購買層もいるかもしれない。価格が高い=自分にとって必要な品質、機能ではなく、低価格=必要最小限の機能で満足という懐にやさしい考え方を抱くひともいるのかもしれない。

高性能や高機能を否定するつもりはないが、だれもがすべてそんなものを必要とする世界もおかしいと気付くべきで、極論かもしれないが世界の富の半分は観光バス1台か2台程度の乗客数が占めているという。残りの富、半分を世界の人々でわけわけしている。この現実を考えたとき、果たして富を独占することほど残念なことはないのではないかと思うが、独占した側の立場にも気持ちにも近づくことがないので想像でしかない。

いままで色んな人の死に目には立ち会う機会があった。思うところ誰しも金を抱きかかえて死んでいく者はなかった。さすがに観光バスに乗った人の最後は知らない。見ていない。どうすんだろうか。

彼ら、富を持つ者たちは高性能、高機能だらけの余生を暮らしているのだろうか。

俺はGジャンを作る。いろんな過程で失敗するしその分のコストや手間もかかる。うまくできる保証はない。(誰に保証するわけでもないが)素人という言い訳で遊んでいる。遊び・素人と言いながら程よく素人ではないという自負もどこかにあり、素人ではないけれどプロでもない。独自の「作品」を作っている。いわゆる「商品」ではない。この違いは明らかに別物だ。

「日曜画家」と半ば揶揄される表現もあるが、例に倣い差し詰め「日曜何ちゃら」だろうか。職業画家が日曜画家より優れた能力があるのかはさておき、覚悟を持っているかどうかの微妙な違いを感じるこという事実は否定できない。

生計が関与する職業画家の方がどことなく媚びている。だからだめだということでなく、生きるための知恵を持ち合わせた処世術を高めているのだと思う。この点において、素人とは違う、所以があるのだろうと思う。平日画家とでも言おうか。

趣味とは違う、ホビーというのに近いのかも知れない。

おわり