2019年12月4日水曜日

大人のいじめ  自分の胸に手を当てて  神戸の先生

神戸のいじめ先生のニュース、大人のいじめを考える。

いじめ自体、大人子供関係なく存在している。

いじめ…と検索したら子供についてのものだったりすることが多く、大人のいじめが少ないと錯覚しそうになった。しかし大人にこそいじめの連鎖原因を解決できない根深い闇がある。子どもはそんな大人の姿を見ている。


いじめられる側にも問題がある、という論調の意見があるがいじめる側の自衛でしかない。いじめる方が悪いに決まっている。特にいじめているという認識の欠如は人格的に当人の何らかの障害や本人自身の心の問題があるのだろう。


世間の風潮はいじめは悪とされながら身近に起こっているいじめがいじめだと認識出来ないのか、知らん顔するのもいじめていることと道義的におなじだ。

つまり、はたで見てた先生方もおなじである。まさか、こんなに騒ぎになって、初めて気づいたというならますます悪である。教える師が、模範となるはずの行動とは真逆の結果を導いたことはとても残念な現実であった。こんな現実は知らずにいたかったが、テレビの視聴率が取れるし、ゴシップ雑誌も売れるし、評論家先生も仕事が増える。世間は格好のネタを見つけ、しばらくの間は騒がしいだろう。

聖職者の罪はいつだって存在している。今回の神戸の先生たちだけではないが、見せしめにはなったろうし、抑止力としては一定の効果はあるだろう。いじめられている諸君に告ぐ。少しだけ今よりも明るい未来があるのだということを。

中学生の時、同級生の女の子がいじめられていた。男子生徒が少しずつ騒ぎ立てた。

女子生徒は生まれつき体臭が強い子で、思春期になりさらに体臭が増したのかもしれない。大人の香りが漂っていた。俺は特段臭いなどと思うことはないのだが、他の男子生徒が「臭い」と言い出す。つられたのかほかの男子生徒もひそひそ声で悪口を言い出すヤツが出始める。

そんな残念な状況が続いて、俺は見て見ぬふりをした。優しく声をかけることもできなかったが臭いなどということは言わなかった。ただ、傍観者としていじめられている女子生徒を守ることすらできないで今思うと、結果的にはいじめていた男子生徒の片棒を担ぐような態度だといわれても仕方がないことだった。俺は、毅然と男子生徒に注意するべきだった。

ある日、女の子は担任から促されクラス全員いる教室の前で自分のことを話し始めた。

体臭は自分のせいじゃない。
臭いと思うかもしれないが、いじめないでほしい。
正直に話すととてもしんどい。家で家族に相談したし今でも悩んでいる。

そう、みんなの前で打ち明けた。

話し終え、しばらく静まり返った。

そのあと担任が何かを言ったかどうかは記憶にないが、彼女の思いを打ち明けたあの時の気持ちは今でも忘れない。どんなにつらかったろう。

読書が好きで、本の話をしたことがあった。すでに到底及ばないほどの読書家だった。知性ある女の子できらりと光る魅力があった。

中学生のころ、到底女子と気軽に話すこともほとんどなかったが、今更ながら話をする機会もないし何も力になれなかったという残念な自分。

女の子は神戸の先生と同じ、だれも助けてくれないと絶望したかもしれない。俺は助けることが出来なかった。

今更ではあるがせめて、自分の罪を発表し、今後これを読んでくれた善意ある、心意気ある青少年、社会人、全世代の人々に言いたいのだ。いじめるな。傍観するな。

もし、今現在いじめられているのなら、決してあなたは悪くない。毅然とした態度で間違いない。傍観していた俺のようなヤツがもしかすると味方になってくれるかもしれない。わかってくれる人は必ず存在する。

いじめる側の心理はいろいろあるが、自分自身の弱さから人を攻撃するというのが基本だからいじめる側は既に破綻しているのだ。

いじめられる側にも何らかの非があるという意見の人、自分の胸に手を当てて考えてからものを言え。

俺は、今更遅いかもしれないがあの時に助けることが出来なかった女の子に今でもわびたい。どうすればいいのだろうかと時折思い出す。

・・・・


もっともらしい、正義を振りかざした内容だったつもりが、自分自身が断罪されるのだという事実を発表したかったのかもしれない。

生きながら、誰かを殺し、傷つけ、自分は素知らぬ顔の毎日。



最後まで読んでくれてありがとう。

おわり









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