ミシンにまつわる話を中心に好き勝手なことを書いているブログです。
と言ってもミシンの詳細を手取り足取り話す内容ではないです。実用性に乏しい、役に立たない内容かもしれません。
散歩して思いついたことを書いたりします。雑記的な内容だと思います。
時に人を見て、時に自分のことを考えています。人がいるから自分を客観視できるのかもしれません。人対自分。
自分自分と書くと、お前のことなど誰も見ていない、気にもかけていないと言われればそれはその通り。
散歩して歩きながら、信号待ちで、歩道橋を渡るとき、いつも歩きながら考えています。
答えを求めて、求めているからと答えが導かれるわけでもないことも多く、答えを求める行動、思考自体を何度も繰り返し巡っているのではないかと思うほど、どうしようもない、しょうもないことを考えます。きっと、その時々の発露は人から見られると???というようなものでしょう。
写真を挟むと読み手の人も読みやすいでしょうか。もう少し写真を増やしたいと思うのですが面倒でついやめてしまいます。従って見栄えも悪いです。つたないかもしれませんが文章を書くことを優先しています。
見栄え悪く、どんなに読まれないブログでも、自分に言い聞かせるという第一目的があるのかもしれません。自分のため・・・自分と。
よく、誰かのために、誰かのことを思って、、と聞くことがありますが、果たしてそうでしょうか?
誰かのことを思って、よかれと思って・・・。
「自分」が誰かのことを思っているのです。
私は私のために行動している、行動することが、私のためになり、ひいては私にまつわる人々、家族や身内、社会にかかわっているのだと思うのです。
衝撃的な映像と悲しいニュースが巷にあふれかえり、まるで暗黒の不幸ばかりかと錯覚してしまうような情報が当たり前になり、世間ではドラスティックなことばかりに神経をすり減らしていないでしょうか。こんなに世間の不幸ごとを正確な情報とばかり聞かされ、見せられる。
皆さんは本当にこんなに人の不幸を見たいのでしょうか。皆さんは人の不幸ごとを見て自分の抱えているいら立ちを沈めているのでしょうか。
人の幸せを喜べない、むしろ人の不幸ごとを願うような陰湿な精神にむしばまれてはいないでしょうか。
すべては自分の中にあるのではないでしょうか。
通常、ミシンというと、仕組みは上糸で下糸をすくって縫っています。上糸、下糸それぞれの糸調子の強さ加減でバランスを取り、表裏きれいな縫い目になるようにします。上、下どちらか一方の調子が強すぎたり弱すぎたりするとうまく縫えないし、縫い目がきれいにはなりません。
考え方は簡単ですし単純なのですが、ミシンという機械は精密なのです。ちょっとしたことで縫えなくなることもあるのです。少しの埃や、たった1滴のミシン油でも違うことがあります。
糸自体の特性の違いもあるだろうし、上糸と下糸の種類やメーカーが違っても問題が生じることもあります。
縫える生地の厚さ、重なり、生地の性質、生地の織り糸など色んな環境条件すべてにおいてバランスや相性があるようです。
話は戻りますが、考え方は単純です。大体においてバランスも簡単に取れます。しかし、まれにうまくいかない時があるのです。そして、うまくいかないときに思うのが、ミシンのせいだと初めに思うのです。
私も不具合に遭遇すると何度もミシンが悪い、ミシンに原因があるのだと思いました。ミシンが原因に決まっている、このミシンをどうにかしたら解決するはずだ。古いミシンだし、いい加減だめになったのだろう。新品ミシンを買いたいなぁ~。などと、アクシデントが続くときそんな風に考えていた時期もありました。
機械や人のせいにする。機械が壊れている、こんな機械を作った人が悪い。極端ですが、まあこんな風に。
ミシンにしたら迷惑な話なのです。
実は、多くの問題の原因は自分の癖だったりすることや原因の元をたどれば自分のミシンの扱いが原因なのだということも少なくないです。
確かにミシンは精密機械ですからメカニカルな部分で故障することもあります。さすがに基盤故障したりするとどうしようもないでしょうし交換することになります。それほどの故障と違う、調整・整備レベルの問題はまず、自分の扱いの癖やちょっとしたことに問題の原因があるのかと感じるようになりました。
壊れない、故障が少ないミシンがよいとされます。家庭用ミシンは最近はコンピューター制御なのでさらに精密です。自分の癖がそうさせたかどうか、もともとのミシン自体が精密なので余計に原因の特定は難しく複雑化しています。
世間で色んな出来事や問題が複雑化しているのも、ミシンの構造がより複雑化しているのと並行しているようにも思えます。
今使っているメインのミシンは約60年ほど前のものです。当時はコンピューターなんてもちろんないし、機械工学の領域です。直線しか縫うことはできませんが、今でも元気に動いていますし、縫い目も悪くありません。むしろ、よいです。
直線だけを縫うためだけのミシンですから、60年たった今でも現行機のミシンと比較してもおそらくですが直線だけなら見分けがつかないでしょう。つまり、60年ミシンの進化は進んでいない、いや、直線を縫う能力に限っては変わらない。では進化していないかというと、もちろん進化しているのです。ご存じの通り、足ふみではなく電動モーター、針停止位置、自動糸切り、押さえ圧の制御など、コンピューター制御によるものです。これらのほとんどは直線を縫うという機能にはあまり関係していないところの機能であるように思います。
色んな機能が開発され、複雑になり本来の縫うという目的に関する周辺のことについてとても使いやすくなっていったのでしょう。
直線だけなので、複雑な構造ではないことも故障が少ない要因であると思います。ひたすら直線だけを縫うことだけに徹している、そんなヤツなんですね。
時代とともに進化し続けるミシンで色んな楽しみが広がり、そしてアクシデントや故障に遭遇して修理費用と天秤に買い替えるサイクルはどんどん早くなる。メーカーや関連企業の人たちは生き残りに必死なわけです。残念ですが私はそんな方たちからの嫌われ者。
なのかもしれません。
ただ、そんな私でも当時の開発者やブランドにかかわった方にはとても尊敬の念を抱かない日はありません。60年も前のミシンですから80歳以上あたりの方たちでしょう。彼らの様々な労力、犠牲、開発に掛ける情熱、間接的にかかわった方、その家族に・・・そうしたすべての人々から受けた恩恵に、ただただ感謝。
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