2019年9月28日土曜日

サッカーとラグビーの決定的な違い、結果を出す日本代表

同じではない。

そのことを出発点として何事においても自分が存在する。

あなたは共通のことを探そうとしがちだが、一体あなたと私は同じはずなどあるはずもなく、別人であり他人だ。

あなたは別人だから同じはずはないのになぜ共通事項を探そうとするのか。
何事も違いがあるという前提であるべきである。

日本を代表する観光地、京都のお茶漬けなどは理解していなければ、その部落のルールを知らないと遠回しに仲間外れにされる。そう、俺にしてみれは京都という地域は「部落」である。

地域やコミュニティといった枠組みの中で活動を許されるようになるには、そういった、あなたと私は「同じ」であることが求められる場面がある。基本的に同じ人間ではあるが、それ以外出自は違うし、何から何まで違うのだが「共通の約束事項」を求められたりする。

共通のことや共感することを否定することではないのだが、それだけにとらわれる盲目的な考え方になったりすることが危険なのだと思う。コミュニティや地域を存続させるためには一定のルールだって必要だし、家族から始まる社会はそんな枠組みの中にあるし、もう少し先には法律・国があったりする。

個人の活動にいて、自由が許される範囲のうちにその個人が何をしようと構わない。言論、表現の自由なのだ。職業選択の自由ってのもあったな。なのに、この国で生きているとつくづく窮屈に感じるのはなぜなんだろう。

世界に通用しない日本サッカーを批判するようなものなのだろうか、侍ジャパン・日本代表は勝てない。

金星すらほとんどない。強豪ブラジル、スペイン、ドイツに勝てたためしがない。そう思い込んでしまう固定観念がどうしようもなく嫌になる。そもそもプレーヤーは勝てると信じて挑んでいるのだろうか。少なくとも指導者やサポーターは遥か格上の強豪国に勝つと信じているのだろうか。

勝てないと思っているプレーヤーが試合をしても勝てるはずはないし、勝てるわけもないが、少なくとも「勝てる」と思って試合に挑んでいるのだろうか?

勝てない要因を試合する前から考えることは、格下であればいくらでも言い訳がましく可能だろうが、所詮そんなメンバーが代表に選ばれているのだろう。結果を出せない日本代表の事実である。

では、どうすれば勝てるのだろうか。答えはいくつでもあげられる。前例があるからだ。なでしこジャパンはいい例だし、スポーツ全般すごくわかりやすい事例が転がっている。

では、なぜそんな貴重な事例を参考にしないのだろう。答えは案外単純で、基本的なことができない集団だからである。

同じ価値観や共通した常識、観念の集合体が、突然個人の意見を述べる勝手気ままな奴が現れるとそれまでの秩序が乱れ、多数を占める勝てないと思い込んでいる一見まともなメンバー達が、異質な光彩を放つ意見の持ち主、実力者に対して足を引っ張ろうと頑張るからに他ならない。頑張りどころを間違えていることに気づいていない。

ここに悲しい日本社会におけるサッカー競技の残念な現実の壁がある。多分ほんの少しの選手はそのことを知って、チームに意見を言ったり、行動で示しているのだろうと思うが、心の底で「勝てるわけがない」と念じている選手が多数を占め、彼らが常識の範囲で物事を考え、チームの多数派(負ける組織にいい居心地を見つけた仲間意識)を形成している。

なでしこは既に優勝経験があるのに、侍ジャパンの野郎どもはいまだに世界から相手にされていないことに大変満足している。そんなポジションを守ろうとしている多数派が存在してチーム内秩序が保たれていることに安心して日本代表に選ばれるだけの喜びを得るための人生を目指している。そんな若者の世界でもある。

京都が世界の人気観光地である理由は、遺産であって、今の京都に住む人の価値ではない。世界から評価されるようになったのは、古の人々が切磋琢磨した文化を積み重ねた結果の今があるからであって、選りすぐりの日本代表メンバーがいくら集っても世界に太刀打ちできない現実はここにある。

大した実力もないくせにかっこつけているつもりか、つけているのだろうがそんな日本代表メンバーなんかは本当にみっともない。かっこ悪いの代表格だろう。よくそんなんでボールをけっているとつくづく思ってしまう。心根が最悪である。勝てない選りすぐりメンバーに選ばれて、いい気になっている、ご機嫌さんである。そして勝てないメンバーしか招集されない現実。いかに勝てないメンバーをそろえるかに心血を注いでいるとしか思えないくらいの毎度の負けっぷりで、いい試合を見せてもらった記憶はない、ないに等しい。プレーヤーの一人二人、いいプレーしたなと思ったら、他の多数はがっかりである。

で、今日のラグビーワールドカップだ。サッカーのみっともない代表アホメンバーと正反対の仕事を見せてくれた。

前回の南アフリカ戦も鳥肌が立ったが、今回のアイルランド戦はにわかの俺にでもわかるくらいに実力を証明してくれた。相手を圧倒していた。今後の試合も余計な期待を持たなくてもいいよと保証されたようなもんだ。

やはり、日本風土の悪い固定観念ばかりのメンバー構成ではないところにヒントがあるように思うが、試合の後のインタビューでもサッカーのとは違う、今日勝った喜びはあと30分くらいまでにして、次の試合に臨みますと、キャプテンが言っていた。チャラついた、しょうもないいちびりなど一人もいない。

あんなラグビー選手のような人が一人でも増えるような社会であってほしいと思ったし、自分はそんなラグビーの精神性を応援するだけの価値はあると思う。

ノーサイド。

アイルランド魂を称えて。









2019年9月15日日曜日

いつものようにめんどくさいことを考える

うまい、安い、早い・・・・安い、早いを求めるがためにちょっと大げさに言うと「本当のうまさ」を知らずに人生を送るという残念な事実に他ならない。

ポケットのオリジナルステッチは波をモチーフにしたもので曲線をうまくステッチで描くのが難関の一つ。

全体のステッチは多少の歪みは気にしない。段付き押さえで左右の幅から何ミリなどきちんと仕上がるアタッチメントを使えばそれなりに見えたりもするが、多用するとなんか、味がないような冷たい感じ、いかにも工業製品を目指しています!という物足りなさがあって、歪んだステッチが実は良いのではないだろうかと、思い切って普通押さえで縫ったりもする。

「味」などと言い表したけれど、足踏みミシンの縫い目が「味」というにはいささか適当ではない気もするが、かといってほかに適当な表現が見つからない。写真は面倒なので掲載しない。違いを表現するのに写真で比較してもらうこともいいのだが、最近はもっぱら言論がマイブームなのだ。

縫い目の長さは基本で言うところ、3センチ間計測で9針前後を標準に、そのつど生地や感覚で微調整したりする。決まりはないし、好きにすればいい。

ステッチだけでなく他にも、前あき、ベルトなどところによってコツがあるのと、ミシンの性能と生地の特性の違いも同じではないので作るうえでいろいろな手法や目指している仕上がりのイメージを表現するための終着駅は存在しない。

たったジーンズ一本作るのにもこんなにいろんな方法、ミシン機材、副資材などを含めると限りなく無限大で、自分の手作り一発勝負だから同じものは二つと存在しない。

大量生産することもなし、どこまで行っても潔く自由で完全オリジナル一点ものジーンズである。普通、このようにオリジナル一点ものジーンズが欲しいときは、専門テーラーにオーダーメイドを依頼するわけで、プロにお願いすると当然のクオリティで仕上がるだろうし、いわば製品になり、れっきとした品質保証も受けることが可能だろう。

で、俺の場合は素人ながら自分のために作るので手間隙、コストを考えすぎることもなく、好きなように出来る。問題は何事も限界があるので、自由、好きなようにといっても肝心な裁縫技能はそれなり、資材は市販されたものを使うことから、表現範囲は無限ではないし(ましてや生地自体をオーダーするわけでもない)、リベットや糸も流通する市販品を使うので大手ブランドのようなボタン・リベットの刻印などは出来ない。(ボタンの金型をつくるだけで数十万すると聞いて撃沈した)

完成度の決して高くはない俺の自作ジーンズだが、完成度を上げるための努力を放棄したわけではない。

そんな中、個人製作の手作りをアピールする上で、どんなこだわりをこめているのかと言うと、いくつかある。

オリジナル革パッチのための真鍮原版焼印を自作した。
コイツは自己満足の到達点として一線を越えたと思っている。しかもデザインはすばらしい。つくづく俺はゲイジュツカだ。(自己満足・自己陶酔は病的だ)

メインマシンは、職業用足踏みミシン戦後ビンテージ時期のもの、今では希少な部類に入るだろう。整備調整も喜んで自分で行う、いつでもスクランブル発進できるよう完全整備され、ぴかぴかに磨かれ万全の体制で待機している。

ただ、足踏みで古いから性能が高い、低いとかいうものではなく、手作業、電気を使わない人力、大量生産にはないテーラーメイドを目指し、あくまでジーンズ一本を完成するための自己管理できる範囲のミシン環境である。大げさに言うと、ここに俺の哲学の真骨頂があると思いたい。

素人手作りゆえの出来栄え残念感を極力排除するためにこのような機材と製作哲学に基づいたジーンズを作るように心がけ、自分だけのヨロコビのためだけに非生産的行動を送っている。

世間には低価格のものから高級品に至るありとあらゆる要望や経済事情などを鑑みた商品があふれている。ジーンズだってそうで、ユニクロなら2980円からあるし、古着などを探せばサイズを限定しなければ数百円で見つけることも出来る。メジャーブランドなら1万円しない価格帯からあるし、人気ブランドになると数万円のものも少なくない。特殊な場合はそれこそテーラーメイド(時価)だろう。いろんな価格帯の選択肢があって、それぞれのフトコロ事情に合わせたショッピングが出来る。

自分でジーンズを作るということはこれらのマーケットから離脱した行為であって、既製品が当たり前、そんな世間に小石を投じたいのだろうと思う。あ~めんどくさい。

自己陶酔型、病理的自己満足と自慢大会で今日も無事終わる。

















忌野清志郎  雨あがりの夜空に




バイクを手放した。

長年乗ったが、維持費と費用対効果を計算し、維持し続けることは余計な支出と判断した。

買取見積もりを複数取ることなく買った店だけに見積もりしてもらった。複数交渉は時間の浪費で無駄になる。時間をかけてかけ引きし、一体どれほどの上乗せが期待できるのか考える時間も経費と思えば相手の言い値で買い取ってもらうことはそれほど損なことでもない。

最近はあまり乗っていなかったし、2週間乗らないこともあった。仕事になると数ヶ月は乗れない。実際のところ、友人や弟などに頼んでエンジンをかけてもらって劣化するのをかろうじて免れた。

昔むかし、DT50とか、NS250とか乗ったが2スト全盛期のいい時代だった。当時、FI(フューエルインジェクション)が普及していない、めんどくさいアナログのキャブレターだった。

NSなんか、オイルが背中に飛んできて着ている上着はどうしようもなくなる。速かったけれど癖あるバイクだった記憶しかない。カタログスペックなら今の250クラスよりも無駄にパワーがあったと思う。

DTは軽く、50だったけれど6速ミッションで、時効だから打ち明けるが80キロを軽く振り切った。取り回しもよかっった。あのバイクが今乗れるなら乗ってみたいが、残念ながら80キロを振り切るようなことはないと断言できる体重になった。

今、バイクに乗ってもあのころとは違って、なにか物足りないと思うようになった。

バイクの性能は向上しているだろうから、新型を受け入れたい気もするがFIに慣れない。アレルギーまで行かなくとも、なんとなくキャブレターへの憧れがあるのかもしれない。そしてバイクに乗る運動能力の点は確実に自分のスキルは低下した。悲しい現実を受け止めなければいけない。

手放したおかげでバイク事故で死ぬ確率はぐんと減ったので余命が伸びたといえる。そして、今後は少しずつ出来なくなることが増え、行動範囲もスケールダウンしてゆく足音が聞こえてきた。

しかし、まだ生き続けることは間違いないので、これからの生き方の軌道修正が必要になりつつあるのではないかと思うきっかけにもなった。曲がり角と言うのか。

代りにというか、車に転向しようかと考えてみたが、これまたバイク同様の状況しか想像できないので止めた。車こそレンタカーで事足りる。

自転車への転向も考えた。

今のところ、ママチャリ30分10円で借りることが出来る環境があるのでしばらくはこれが手っ取り早い。5時間借りて100円なので文句あるはずもない。

バイクを処分したことで、余計な経費がカットされ、所有するめんどくさいこと、メンテナンス、納税や保険などから開放されたのである意味さばさばした。

世間では、いろんな買い物をして発表している人々が多い中、物を処分するミニマリストなるものまで、生き方、暮らし方の考え方はそれぞれあるだろう。自分はどうかと言うと、はっきりとどちらでもないけれど、どちらかと言うと物を買う消費者である。誰かの商品レビューを見て感化され、物欲も沸くし、手に入れたいと思えばたいていのものは買えなくもない経済事情もあるのでそういう意味では不満のない暮らしが出来ている。

ただ、金は湯水のように無限のものではないので取捨選択して必要なものと不要なものを見極めることやむなし、今までを振り返るとつくづく不要なものを買い続けてきたような、今となってはいらないものが身の周りにあふれ返り収まらない。

今、ミシンは5台ある。内、3台は同じ職業用足踏みで、余計なもの俺リストのランキングは上位を占めている。バイクを売り払ったので更に順位を繰り上げた。じわじわと処分の声が聞こえてきた。

ミシンは誰かにあげてもいいのだが、あげる=”上から目線”と受け止められかねない。それがたとえ善意で無償であってもである。タダほど高いものはない。ということかもしれない。あげるとなると、見返りを求められるようで怖いという常識的な感覚がバイアスとなり、このキーワードは余計に禁句だろう。

友人や知人にミシンを始めようかと思う人がいればいいのだが、いない。

近々、近所でガレージセールの出店を募集しているので買い手を探すのも一つかもしれない。

そもそも、職業用足ふみミシンを使えるスキルある人、心得のある人、挑戦しようという人、使ったことがあり使ってみたい人など、そうそういないだろう。癖もあるし使いやすいかというと、どちらかというと使いにくい。使い方を知らないとすべてのことが驚きの体験となるだろう。そういう意味でもたやすくはない。

今まで、本は相当処分したし、自家用車からバイク、家財道具など引っ越しや、経済状況を検討したとかのイベント時には何かしらの処分をした。

ものを所有するということが、これほど面倒なことがあるという実感であり、つくづくものの処分や所有するためのあらゆることについて、対応する能力が低下したのだろうかと感じ始めた。今までは、面倒なら金で解決したり、処分のために処理場まで運ぶことなどどおおおってことなかったが、最近はつくづくこう言ったことが面倒でしんどい。

反比例して、玉置浩二から井上陽水に傾倒しつつあるのは自分を振り返る意味でも合点が行く。たとえとしてはわかりにくいだろうが、これが今の感じる事実でもある。

バイクを所有していたが、一身上の都合で手放した。手放すという点でミシンも余剰なので誰かに・・・と思うが譲るからには無責任にはいかないのは承知している。今までもなにがしかの処分セールを振り返り、年のせいか、つくづくできなくなったなぁ、面倒くさいなぁ。という塩梅である。

ミシンは欲しいという人が身近に現れたら譲るというスタンスで気長にいけばいい。問題はこれからも整理していくものがあるから、徐々に進めていくことになるだろう。

玉置浩二、井上陽水と書いたが、今日の気分は忌野清志郎なのだ。

おわり

2019年9月13日金曜日

二つの嘘に隠れた一つの真実  今夜は焼きそば

世間では人不足によるいろんな問題が現れているらしいと聞く。
人不足のコンビニエンスストアの切り盛りもシフトはいつも綱渡り状態。

人不足の飲食店の店先にはアルバイト募集の張り紙。

「バイト探しはタウンワーク」「バイト探しのインディード♪」とか、「リクルート」とか求人情報が盛んだ。

景気が良いのか、最低賃金はアップした!しかし、そう簡単に人不足の解決にはならない。

私の仕事場は日本人だけしか周りにはいないが、世間では外国人労働者が増えた。

先にあげたコンビニも日本人かと思いきや、名札を見るとカタカナだったりする。スーパーのレジもそんな人が働いているし、どこにでもいる。活躍してくれていることは大変歓迎したい。個人的にはがんばって欲しいとさえ思うが、いままでとは違う時代に移りつつある。

ただ、外国人を安く雇い、こき使っている悪徳経営者様はよろしくない。案外、その経営者様も外国人だったりするからややこしいこともある。

純粋に日本人経営の優良企業であっても闇の世界ではもしかすると奴隷まがいの雇用実態が・・・と想像したり。あるだろうなぁ~と何気に思ったりする。


DIYの物づくりを通じて考えてみると、ジーパンの縫い方をyoutubeなどで見たり、生地やジッパー、ボタン、リベット、糸など副資材調達のための手芸店やハギレを買う面倒や手間がつくづく大変で事業となると相当のボリュームと専門的な世界だろうと感じる。

たった一本のジーンズだけでも大変なのに、ジーンズだけでなくアパレル業界の状況なんかを見聞きすると、製造現場ならなおさら過酷な現実があるのだろうと想像できる。

こんな過酷な世界だから、挑戦する若者も消極的になるだろうし、一部の大企業を除いて、新たな参入どころか、撤退を決めたりして、マーケットも製造現場も衰退しているのだと思う。

ベテランはすでにリストラしたからこれ以上減らせない。あとは若い社員が自発的に辞めたら次に再び最低賃金で安く若い人を採用でき、こき使える。安月給の若者なら雇ってやっても良いが、熟練者は要らない、と言うのが大方の本音だろう。

若いうちは一生懸命に働いて、評価されないこともあるけれど、続けることに意味がある場合と、さっさと辞めて他を探したほうがいいときもある。今の2、30代の労働者の競争相手は故郷にたくさんの親戚、家族を養うために死に物狂いの外国人も含まれるような時代になった。

人不足という情報を発信しているヤツ、本当に人不足しているという客観的事実に基づいて言っているのか甚だ疑わしい。

求人情報やハローワークにはいつも人だかりだと聞く、高齢者や障がい者、引きこもりだって仕事を求めているかもしれないのに就職できない人もたくさんいる。(勤めている知り合いから聞いた。人不足ではないときっぱり否定していた)

この状況は人不足ではない。人気店の行列と人気無い店の明らかな格差である。
不人気の店、会社は人不足といいながら、人を使えていない。「使い方がわかりません」と言うならいいのだが、「不足している」と嘘をつく。メディアも嘘を垂れ流す。

街を歩くとたくさんの人がいる。仕事をしている人が大半だと思うが、無職、求職中の人だって少なからずいるはずで、不足していると主張しているやつは一体どこに目がついているのか?周りを見たら人だらけだぞ。

つまり、人がいるのに「人手不足」という論理は何がしかの論点をずらしている。

人が集まらないような魅力がないのか、奴隷に等しい労働環境だと言っているようなもんだ。または魅力を発信する能力のない企業なのか、人が集まってくれないスパイラルを社会のせいにしている。経営手腕が良くないとか理屈を言っているのが目に付くけれど、屁理屈である。

当たり前のことをもう一度、

人不足(うそ)=世間には人はたくさん余るほどいる。=お互い人を大切にしているか胸に手を当ててみろ。

人不足(うそ)=仕事依頼が来たのに対応するための人員がいない(うそ)=そもそも、もうけを独占しようという根性が薄汚れている。ここは日本だ。一人勝ちすることに世間は冷酷だ。嫌がらせする暇なやつもたくさんいる。

大体、この二つで原因究明と打開は事足りる。

もう一つだけ、肝心なこと。
それは、つぶれるべくしてつぶれる会社がある。そもそも不要なのだ。

ネガティブ続きの内容だが、そんな世界にも実はチャンスやヒントはあるだろうしどんな時代にも切り抜けるための突出したアイデアの救世主は現れるものだろうから、未来は明るい。

とことん悲観しても、突き抜ければ幸せが待っている。


クッキングタイム♪

今夜のメニュー紹介。

今日はニラともやし、豚肉の焼きそば。
味付けはオイスターソースと醤油で行こう。
野菜はゴーヤチャンプルーを小鉢で、平皿でスライス玉ねぎとハムのキャロットドレッシング。
魚はサーモンフライ、海老の塩焼き、タルタルソース添え(もちろん俺製)、こいつにレモン添えて+コールスローだ。

味噌汁、納豆、ご飯お代り自由。漬物はいつものきゅうりのぬか漬け。

夕飯に焼きそばは禁じ手だが、俺はやる。文句あるヤツはかかって来い。

おわり








2019年9月3日火曜日

最高の普通  本当の価値  グランドセイコー

「最高の普通」

当時、この一言でイチコロに落ちた。

若気の至りで物欲に負け、買った。

今でも一番の相棒である。


16、7年ほどになるが、何度目かのオーバーホールにもいまだ機嫌よく、故障など一切ない。

腕時計である。

だいたい、時計を所有するヨロコビは人に見せびらかして「どうだ、参っただろう俺の時計、きらきらしてるだろぉ」というようなヤツが時々いる。アフォな風景を思い描いて欲しい。バブル期にみられた光景だった。

客観的・冷静になると恥ずかしい極地であるが、当時の俺は典型的なそんなヤツであった。いきがって、カッコついてないのにかっこつけていた(つもりになっていた)のだ。思い出しても恥ずかしぃっ。


だいたい、物欲にまみれたヤツの見せびらかしほどみっともないものはない、とつくづく思う。今までのそんな醜態を思い出すと恥ずかしいことこの上ない。金さえ払えば誰だってどんな高価な時計も買える。俺には身分不相応な時計だった。

そう感じ始めた一時期、こんな恥ずかしい時計、誰か、弟などにでもくれてやったら良いんじゃないかと思ったりもしながら、しばらく使わずにしまっていた。



お客様相談室の島田さん、依頼したオーバーホール完了後の留守番電話のメッセージの声音が今でも記憶の片隅にある。

留守番メッセージに残されたスマートな話しぶり、無駄のない事務的な用件だけではない知的でエレガントな言葉遣い、それらを含んだ表現力は今でも忘れることが出来ない。

時計修理の一窓口スタッフの方のさりげない一流の対応が、不思議とこの時計を買って良かったと思わせてくれた瞬間だった。

その人の一瞬はつくづく「最高の普通」と言う表現にふさわしい所作だった。



金さえあれば、高級時計の一本や二本、買って所有することは誰だって出来るし、無理してでも背伸びしていい時計を買うこと自体、悪いことじゃない。がんばって買った少し高い時計を見せびらかしたっていい。それが、仕事を一生懸命がんばる原動力になったり、女の子にもてたいという一心でもいい、誰だってそう言う目標物があるといい。

例外に漏れず、俺はそんなヤツで、不相応な時計を所有したがために、その時計の持つ実力をあとから教えられた。そして、いかに自分がその時計にふさわしい男でないかをつくづく思い知らされた。そういう意味では、買ってよかったと思う。

この時計を買って、腕に巻き、その価値にふさわしい、笑われることないくらいの男になれただろうか。

その価値は、年数が経つにつれ高まってきているような、もしかするといつまでも背中を追い続けているのではないかと思うときがある。

その時が来たら、この時計は譲ろうと思う。

・・・まだ精進だなぁ。