2019年9月15日日曜日

忌野清志郎  雨あがりの夜空に




バイクを手放した。

長年乗ったが、維持費と費用対効果を計算し、維持し続けることは余計な支出と判断した。

買取見積もりを複数取ることなく買った店だけに見積もりしてもらった。複数交渉は時間の浪費で無駄になる。時間をかけてかけ引きし、一体どれほどの上乗せが期待できるのか考える時間も経費と思えば相手の言い値で買い取ってもらうことはそれほど損なことでもない。

最近はあまり乗っていなかったし、2週間乗らないこともあった。仕事になると数ヶ月は乗れない。実際のところ、友人や弟などに頼んでエンジンをかけてもらって劣化するのをかろうじて免れた。

昔むかし、DT50とか、NS250とか乗ったが2スト全盛期のいい時代だった。当時、FI(フューエルインジェクション)が普及していない、めんどくさいアナログのキャブレターだった。

NSなんか、オイルが背中に飛んできて着ている上着はどうしようもなくなる。速かったけれど癖あるバイクだった記憶しかない。カタログスペックなら今の250クラスよりも無駄にパワーがあったと思う。

DTは軽く、50だったけれど6速ミッションで、時効だから打ち明けるが80キロを軽く振り切った。取り回しもよかっった。あのバイクが今乗れるなら乗ってみたいが、残念ながら80キロを振り切るようなことはないと断言できる体重になった。

今、バイクに乗ってもあのころとは違って、なにか物足りないと思うようになった。

バイクの性能は向上しているだろうから、新型を受け入れたい気もするがFIに慣れない。アレルギーまで行かなくとも、なんとなくキャブレターへの憧れがあるのかもしれない。そしてバイクに乗る運動能力の点は確実に自分のスキルは低下した。悲しい現実を受け止めなければいけない。

手放したおかげでバイク事故で死ぬ確率はぐんと減ったので余命が伸びたといえる。そして、今後は少しずつ出来なくなることが増え、行動範囲もスケールダウンしてゆく足音が聞こえてきた。

しかし、まだ生き続けることは間違いないので、これからの生き方の軌道修正が必要になりつつあるのではないかと思うきっかけにもなった。曲がり角と言うのか。

代りにというか、車に転向しようかと考えてみたが、これまたバイク同様の状況しか想像できないので止めた。車こそレンタカーで事足りる。

自転車への転向も考えた。

今のところ、ママチャリ30分10円で借りることが出来る環境があるのでしばらくはこれが手っ取り早い。5時間借りて100円なので文句あるはずもない。

バイクを処分したことで、余計な経費がカットされ、所有するめんどくさいこと、メンテナンス、納税や保険などから開放されたのである意味さばさばした。

世間では、いろんな買い物をして発表している人々が多い中、物を処分するミニマリストなるものまで、生き方、暮らし方の考え方はそれぞれあるだろう。自分はどうかと言うと、はっきりとどちらでもないけれど、どちらかと言うと物を買う消費者である。誰かの商品レビューを見て感化され、物欲も沸くし、手に入れたいと思えばたいていのものは買えなくもない経済事情もあるのでそういう意味では不満のない暮らしが出来ている。

ただ、金は湯水のように無限のものではないので取捨選択して必要なものと不要なものを見極めることやむなし、今までを振り返るとつくづく不要なものを買い続けてきたような、今となってはいらないものが身の周りにあふれ返り収まらない。

今、ミシンは5台ある。内、3台は同じ職業用足踏みで、余計なもの俺リストのランキングは上位を占めている。バイクを売り払ったので更に順位を繰り上げた。じわじわと処分の声が聞こえてきた。

ミシンは誰かにあげてもいいのだが、あげる=”上から目線”と受け止められかねない。それがたとえ善意で無償であってもである。タダほど高いものはない。ということかもしれない。あげるとなると、見返りを求められるようで怖いという常識的な感覚がバイアスとなり、このキーワードは余計に禁句だろう。

友人や知人にミシンを始めようかと思う人がいればいいのだが、いない。

近々、近所でガレージセールの出店を募集しているので買い手を探すのも一つかもしれない。

そもそも、職業用足ふみミシンを使えるスキルある人、心得のある人、挑戦しようという人、使ったことがあり使ってみたい人など、そうそういないだろう。癖もあるし使いやすいかというと、どちらかというと使いにくい。使い方を知らないとすべてのことが驚きの体験となるだろう。そういう意味でもたやすくはない。

今まで、本は相当処分したし、自家用車からバイク、家財道具など引っ越しや、経済状況を検討したとかのイベント時には何かしらの処分をした。

ものを所有するということが、これほど面倒なことがあるという実感であり、つくづくものの処分や所有するためのあらゆることについて、対応する能力が低下したのだろうかと感じ始めた。今までは、面倒なら金で解決したり、処分のために処理場まで運ぶことなどどおおおってことなかったが、最近はつくづくこう言ったことが面倒でしんどい。

反比例して、玉置浩二から井上陽水に傾倒しつつあるのは自分を振り返る意味でも合点が行く。たとえとしてはわかりにくいだろうが、これが今の感じる事実でもある。

バイクを所有していたが、一身上の都合で手放した。手放すという点でミシンも余剰なので誰かに・・・と思うが譲るからには無責任にはいかないのは承知している。今までもなにがしかの処分セールを振り返り、年のせいか、つくづくできなくなったなぁ、面倒くさいなぁ。という塩梅である。

ミシンは欲しいという人が身近に現れたら譲るというスタンスで気長にいけばいい。問題はこれからも整理していくものがあるから、徐々に進めていくことになるだろう。

玉置浩二、井上陽水と書いたが、今日の気分は忌野清志郎なのだ。

おわり

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