2019年11月10日日曜日

ファーウェイP30lite  答えは急ぐわけではない HUAWEI P30lite 華為

ファーウェイP30liteである。

格安SIMフリースマホである。

OCNモバイルで4800円で手を打った。


キャンペーン出だしのころ、4800円MNP割引本体価格から5000円キャンペーンを逃したが、それでも4800円+Taxは安かったと思う。

料金プランも最安のランクを選んだので月々1600円+Taxである。

今までキャリアと呼ばれるソンさんのガラケーだったので通信料金合わせて月額2000円もかからなかった。安かったのだと思うが、年間にしたら24000円はせしめられるし、機種本体代金や付属の充電アダプターとかオプション周辺のものを買い足したりするのが一般的だろうから年間にするとおよそ3万円ほどのコストがかかっているのではないだろうか。それでもスマホの無制限とか通信にかかる費用を貪ると到底そんな程度では済まないだろう。

携帯電話のない時代、黎明期から考えると情報収集のためのかかる経費として生活スタイルは少しずつ支出が増えた。もう家の固定電話だけの時代ではない。

同僚に聞くと、キャリア(ドコモ)を無制限に使い、機種代金一括でも月々1万ほどかかるし大したことをしゃべるわけでもなしにゲームだの、アプリ代金だので年間20万近くかかっているかもしれないという。そいつはマイホームなどとっくの昔にローンも払い終わり、子供も独り立ちしている。甲斐性のあるやつなので俺のような貧相なヤツとは比較にならない。俺は20万と聞くだけで条件反射的に拒否反応が現れる。無理だ。

先に述べた住宅をローン返済すると、人生のほとんどを返済のために生きることになるという社会プログラム、資本主義の約束事に従わなければならないように仕組まれている。日本のマイホームの価格帯は生涯年収から割り出し、逆算して値付けしているとしか思えない。そういうことなのだろう。

ほか、物欲はご存じ、車や趣味にかかるし、子供の教育費、交際費、酒代、たばこ、医療費と考えると通信費は増大する一方だ。しかし、肝心の収入は減ることはあっても増えることはそうそうない。楽観的に起業して成功の道のりを順調に進むことが約束されているのなら誰しも雇われる宿命からは解放されるのだが、世の中そんなに甘くない。

成功の道のりと書いたが、何が成功なのかしら、それすらよくわからなくなる。使いたいだけの金があっても、いつか飽きてしまうだろう。際限なく欲望を満たし続けた先に一体何があるだろうか。

一番安い価格帯のモデルを選んで、安い料金プランの範囲内でせいぜい遊んでみるのが自分には相応しいと思う。上見るときりがないし、世間の色んな広告見ると目移りしてしまう。

・・・という欲望は選んで手に入れること、高根の花を目指したいならそれに向かって頑張ることもよし。若かったころの自分はそんな思い込みもあったが、おっさんになってきたせいか今はそんな情熱が失せた。

情熱が失せたという表現は正確ではなく、今の時点での情熱は若いころ抱いたような性質のものではなく、違う形態のものに変化しているのだと思う。あの頃、必死に何かを追いかけていたし、その何かを実はよくわかっていなかったようにも思う。だから今追いかけているものの対象物は何かがわかっているのかという問いには「いや、わかっていない」

スピードはあったが、常に背中しか見えなかった。後ろ姿というべきか。今もわからないなりに何かの後ろ姿をとらえようとしているが、都度その動作や行動自体を噛みしめているという感じだ。だんだん何を書いているのかわからなくなりそうだが、答えを急ぐ必要はない。







2019年11月9日土曜日

スマホは模型  持ち物で自分をはかることはできない

残念な書き出しで始めよう。

金持ちにはなれなかった。
位の高い地位につくことはできなかった。
友人にも恵まれず、仕事でもぱっとした成果を上げたわけでもない。

得られなかったものは多いけれど、なければないで何とかなった。

ガラケーの3Gがとうとう利用できなくなるサービスが現れ、強制的に利用できなくなってしまう。そんな節目に差し掛かったので仕方なく格安スマホである。

携帯電話などやめようとも考えたのだが、今しばらく世間とのつながりの証のような、シンボルめいたものをチラつかせることで人間社会の一員の振りをするという選択をした。

ならば模型でもよかったのだが、この際だから遊ばせてもらおう。(遊ばれているのかもしれないが)

この俺も晴れてスマホ社会の一員である。今更である。めんどくさくもある。もう、思い出せばWindowsが98のときにパソコンを始めた。なんだかんだ20年経過したのだ。エロサイトを見てウイルスにやられてしまったことも、かんかんになってエクセルを覚えてマクロと関数を多少なりとも使えるようになったことも、覚えたり調べたり、失敗の連続だったが、今振り返ると狭い世間の中で淀んでいた。

使うユーザーは新発売なんかの、いわゆる目新しいものに飛びつくように、うまく買い替えさせられてきたわけで、働いて得た金を巻き上げられてしまう。

一時期は、そんなカツアゲされる側ではなく、する側になってみたいと思ったこともあったが、とうとうそういう下心もなくなってしまった。アホらしい。

そうはいっても、営利企業などで働く以上、誰かを食い物にしているという図式はあるわけで、「食い物」という表現はいやらしい響きだが、だからといってその一面だけを見るということ自体にもある意味「食い物」にされてしまっているように思う。

ソンさんの会社のプレミアム会員を解約しようとしたら、主IDは解約できたが連動したIDの方は連動して解約できるものと思い込んでいたらどうやっても解約できない。よくよく調べると到底簡単には到達できそうもない奥深いところに解約のボタンが小さくあって、なるほど、これだからソンさんは偉大なんだなぁとしみじみ感心した。

いかに裾野を広げて少額をせしめるかを考え抜いたビジネスなのだ。世間ではこれを分かって騙されている。あるいは振りをしているのか、本当にわからずに騙されているのか。

「騙される」というのも食い物にされるというのと似たもんで、だから悪いという一元的な捉え方も危ない。これも何らかの循環がある。オレオレ詐欺などもそういう点でみると不法に巻き上げた金は何らかの形で社会に循環されるのだろうから、詐欺は悪いが流れる金に罪はない。

金があれば何でも買える。
地位が高ければ下のヤツに命令できる。
友人がいればボヤキあえる。

金がなければ、ないなりに暮らしを考える。
地位がなければ上のヤツの命令に従うだけで給料がもらえる。
友人がいないので余計な付き合いもなく研究に没頭できる。

金があると、盗まれないかと案じなければならず。
地位が高いと、保身に走る。
友人がいると、余計なことに口出しされる。

金がなければ、生活保護で守ってもらえる。
地位がなければ、それ以上落ちようがない。
友人はいつか見つかるかもしれない。

あってもなくても、それなりの辛抱も必要だろうがそれなりの、、楽しみもあるのだよ。



2019年11月6日水曜日

今日もいい一日  記憶の断片  無責任な発言でいいのか

聞いてほしい、読んでほしいという承認欲求と、自分への整理のためなのだが、書いたからと言って正しいかどうか、絶対ではないので、今思う自分の中の事実だけを書くように努めているがそれもまた、もしかすると揺らいだりして気が変わることだってあるんだろうと思う。めんどくさい。

PCがあって、キーボードを打てば文字を入力できる。ただ、それだけのことなのだから深く考えずに打ち込んでいるが、なぜか白々しい。

ジーパンづくりも、いかにして作るか、どんな仕上がりになるか、サイズは?、洗うとどんな風になるかなど、どうでもいいことに時間を費やしているのは趣味(ホビー)の世界に没頭できているれっきとした論拠だろうと思う。

ミシンを整備するのにも、埃を払い摩擦する部分に注油するのだが、ひたすら回転運動などを見ながら滑らかに動くギア、軸などを見てニンマリしているだけだ。誰にも関係ないことだし関与せず関与されず、自分だけの世界だからひたすらトンネルの中を邁進している。井戸を掘るような作業にも通ずることかもしれない。ただ、トンネルや井戸は人々の役に立つが、俺のは誰にも役にも立たない。

己のあるがままを受けとめる、みたいな。

ボヤキと文句を繰り返し声高に、世間に発信しているのだが誰かを傷つけてしまっているかもしれず、もしこのブログ発言で傷ついた人がいるなら勝手に傷ついていろと言い、無責任にも適当に書いていることをお知らせする。

もしかして不特定多数の人の目に触れ、読んでくれた人がほんの少し気が楽になるか腹の立つことに溜飲を下げるようなものであってすればと思ったりもする。

自分の中にある漠然とした、人々の役に立ちたいという基本欲求をブログを書くことで提供しているつもりになっているのかもしれない。勘違いかもしれないし、めんどくさいことでもある。

時に記憶が断片に思い出し、ハッとする。


もう、10年以上前、知人が自殺した。

うつ病を患っていた。「うつ病」ということで俺は自分にその知人の死を受けとめるようにしたと思う。今までもかかわってきた身近な人々が色んな最後を迎えた中、その知人とはかなり近い関係だったもんだから、今でもなにがしかの痕跡があるし、俺の中ではまだ死んでいるのではない。残され生き続けると、少なからずこんな経験を積み重ねていくもんだろうというのがここ最近の到達した通過点の一つだろうか。

自分の中で断片がつながり、ちぎれ、また違うつながりができ、記憶が形成される。しかし知人とかかわった人物、人となりは俺の中で元気だったころの姿がある。いいやつだった。

ここでは自分の氏名を明かさずに好きなことを書いている。しかも、近い人のことも含めて、身の回りの出来事を書いている。事実をなるべく忠実に書くようにしているが、あくまでペンネームもなく、公表するような社会的地位もない。対象の人物は特定できないようにしている。であるから、無責任な内容になっていること、具体性に欠けるかもしれないということ、無責任放題の一方的な発言であることに批判があっても一切の反論もできない。する気もない。

アホはアホなりの人生があるし、貧乏から金持ちまでいるがどんな奴もいつか死ぬだろう。死なない奴はいない。死ぬまで生きるだろう。そのことは間違いなさそうだ。



















2019年11月5日火曜日

自分だけの世界 誰一人として理解されなくても

ただただ上手に作るyoutubeとか、ブログを見てもなぜか振れない。

上手く作るのは職人、工員であるし、大量生産もし、特注も細心の注意と専門性を込めて一生懸命に仕上げる。仕上がりは美しい。参考になるし、貴重な内容を見て感動もする。

しかし響かない。なぜだろう?

工業生産、鍛え上げられた技術、細心の技能の末に研ぎ澄まされた完成品、極上の縫製。

高度な縫製の服は心地いい。

だがしか~し、自分が作るジーパンはゆがみ、型はズレ、糸をつぎ足し、失敗だらけ。そんな仕上がりなのだが、自分で作るという感覚が何とも言えないくらいにいい。自分の失敗には目をつむり、少々出来の悪い子供の方が可愛いのと同じで、許せてしまう。

手作りならではの良さ・・・などということを主張するつもりではない。そんな主張はしない。人に知らしめることではなく、手作りをとことん自分で楽しんでいるのだから自分だけの世界ということだ。

世間ではだれも自分のジーンズを自分で作るということなどしないだろうが、もし、そんな暇な人がいればきっと理解してもらえるのではないかと思う。少ないながら、国内には素人デニム作家と呼べる変態はおそらく3人はいるのではないだろうかと想像している。

元素人を合わせると10人は存在するのではないだろうかとも思うが、俺は素人を貫く。(というよりただの素人)何をそんなに素人と偉そうに・・・と思われたあなた、偉そうに思えたなら、あなたよりも私の方が偉いのだよ。(また本当のことはさておいて)


昨日、散歩して端切れのセルビッジデニム3メートル(900円税込み)を二枚買った。こいつでGジャンを作ろう。

今、別に2メートル(300円税込み)二枚ストックがあり、こいつも冬仕様のジーパンになる予定だ。ちょいと忙しい。

自分用にいろいろ作り、次第にコレクションが増えたら次は身内の分を作る。(かもしれない)

6月に仕上がったオーバーオールの着心地はすこぶるよろしい。俺は天才なんじゃないかと自画自賛している。些細なことだがこんなことで嬉しい。勘違いも独壇場なのでなりふり構わない。

人付き合いはつまらない。人と遊んだり、交流することが楽しみな人が多いかもしれないが、俺は誰とも付き合いたくないし、一人で何か作業したり考え事をする方が有益で実りある。多分俺は研究するのに向いているのだが誰からも研究依頼もないし、自発的に世界を探求しているだけなので気楽でもある。頼まれもしないことを一生懸命にしている。

次回作にGジャンを作ろうと考えているが、今度こそ市販のパターンを買って挑戦してみようとネット検索して適当なのを見つけてぽちった。

タイトル通り、ノルマなし、締め切りなし、研究依頼募集します。好き勝手させていただきます。こういうコンセプトでやります。仕事ください。ただし、約束守りません。何もかも約束できないので承知の上で遊ばせてください。・・・こんな虫のいい話はさすがにないだろう。大体こんな話についてくる人も世の中にはいないのだろう。

興味を持った方、連絡ください。ただし、期待に添えることはないという前提で。

追記:2020/03/30
その後、いまだかつて連絡は一切ない。まだ、周辺には常識人しかいないようだ。(笑)






2019年9月28日土曜日

サッカーとラグビーの決定的な違い、結果を出す日本代表

同じではない。

そのことを出発点として何事においても自分が存在する。

あなたは共通のことを探そうとしがちだが、一体あなたと私は同じはずなどあるはずもなく、別人であり他人だ。

あなたは別人だから同じはずはないのになぜ共通事項を探そうとするのか。
何事も違いがあるという前提であるべきである。

日本を代表する観光地、京都のお茶漬けなどは理解していなければ、その部落のルールを知らないと遠回しに仲間外れにされる。そう、俺にしてみれは京都という地域は「部落」である。

地域やコミュニティといった枠組みの中で活動を許されるようになるには、そういった、あなたと私は「同じ」であることが求められる場面がある。基本的に同じ人間ではあるが、それ以外出自は違うし、何から何まで違うのだが「共通の約束事項」を求められたりする。

共通のことや共感することを否定することではないのだが、それだけにとらわれる盲目的な考え方になったりすることが危険なのだと思う。コミュニティや地域を存続させるためには一定のルールだって必要だし、家族から始まる社会はそんな枠組みの中にあるし、もう少し先には法律・国があったりする。

個人の活動にいて、自由が許される範囲のうちにその個人が何をしようと構わない。言論、表現の自由なのだ。職業選択の自由ってのもあったな。なのに、この国で生きているとつくづく窮屈に感じるのはなぜなんだろう。

世界に通用しない日本サッカーを批判するようなものなのだろうか、侍ジャパン・日本代表は勝てない。

金星すらほとんどない。強豪ブラジル、スペイン、ドイツに勝てたためしがない。そう思い込んでしまう固定観念がどうしようもなく嫌になる。そもそもプレーヤーは勝てると信じて挑んでいるのだろうか。少なくとも指導者やサポーターは遥か格上の強豪国に勝つと信じているのだろうか。

勝てないと思っているプレーヤーが試合をしても勝てるはずはないし、勝てるわけもないが、少なくとも「勝てる」と思って試合に挑んでいるのだろうか?

勝てない要因を試合する前から考えることは、格下であればいくらでも言い訳がましく可能だろうが、所詮そんなメンバーが代表に選ばれているのだろう。結果を出せない日本代表の事実である。

では、どうすれば勝てるのだろうか。答えはいくつでもあげられる。前例があるからだ。なでしこジャパンはいい例だし、スポーツ全般すごくわかりやすい事例が転がっている。

では、なぜそんな貴重な事例を参考にしないのだろう。答えは案外単純で、基本的なことができない集団だからである。

同じ価値観や共通した常識、観念の集合体が、突然個人の意見を述べる勝手気ままな奴が現れるとそれまでの秩序が乱れ、多数を占める勝てないと思い込んでいる一見まともなメンバー達が、異質な光彩を放つ意見の持ち主、実力者に対して足を引っ張ろうと頑張るからに他ならない。頑張りどころを間違えていることに気づいていない。

ここに悲しい日本社会におけるサッカー競技の残念な現実の壁がある。多分ほんの少しの選手はそのことを知って、チームに意見を言ったり、行動で示しているのだろうと思うが、心の底で「勝てるわけがない」と念じている選手が多数を占め、彼らが常識の範囲で物事を考え、チームの多数派(負ける組織にいい居心地を見つけた仲間意識)を形成している。

なでしこは既に優勝経験があるのに、侍ジャパンの野郎どもはいまだに世界から相手にされていないことに大変満足している。そんなポジションを守ろうとしている多数派が存在してチーム内秩序が保たれていることに安心して日本代表に選ばれるだけの喜びを得るための人生を目指している。そんな若者の世界でもある。

京都が世界の人気観光地である理由は、遺産であって、今の京都に住む人の価値ではない。世界から評価されるようになったのは、古の人々が切磋琢磨した文化を積み重ねた結果の今があるからであって、選りすぐりの日本代表メンバーがいくら集っても世界に太刀打ちできない現実はここにある。

大した実力もないくせにかっこつけているつもりか、つけているのだろうがそんな日本代表メンバーなんかは本当にみっともない。かっこ悪いの代表格だろう。よくそんなんでボールをけっているとつくづく思ってしまう。心根が最悪である。勝てない選りすぐりメンバーに選ばれて、いい気になっている、ご機嫌さんである。そして勝てないメンバーしか招集されない現実。いかに勝てないメンバーをそろえるかに心血を注いでいるとしか思えないくらいの毎度の負けっぷりで、いい試合を見せてもらった記憶はない、ないに等しい。プレーヤーの一人二人、いいプレーしたなと思ったら、他の多数はがっかりである。

で、今日のラグビーワールドカップだ。サッカーのみっともない代表アホメンバーと正反対の仕事を見せてくれた。

前回の南アフリカ戦も鳥肌が立ったが、今回のアイルランド戦はにわかの俺にでもわかるくらいに実力を証明してくれた。相手を圧倒していた。今後の試合も余計な期待を持たなくてもいいよと保証されたようなもんだ。

やはり、日本風土の悪い固定観念ばかりのメンバー構成ではないところにヒントがあるように思うが、試合の後のインタビューでもサッカーのとは違う、今日勝った喜びはあと30分くらいまでにして、次の試合に臨みますと、キャプテンが言っていた。チャラついた、しょうもないいちびりなど一人もいない。

あんなラグビー選手のような人が一人でも増えるような社会であってほしいと思ったし、自分はそんなラグビーの精神性を応援するだけの価値はあると思う。

ノーサイド。

アイルランド魂を称えて。









2019年9月15日日曜日

いつものようにめんどくさいことを考える

うまい、安い、早い・・・・安い、早いを求めるがためにちょっと大げさに言うと「本当のうまさ」を知らずに人生を送るという残念な事実に他ならない。

ポケットのオリジナルステッチは波をモチーフにしたもので曲線をうまくステッチで描くのが難関の一つ。

全体のステッチは多少の歪みは気にしない。段付き押さえで左右の幅から何ミリなどきちんと仕上がるアタッチメントを使えばそれなりに見えたりもするが、多用するとなんか、味がないような冷たい感じ、いかにも工業製品を目指しています!という物足りなさがあって、歪んだステッチが実は良いのではないだろうかと、思い切って普通押さえで縫ったりもする。

「味」などと言い表したけれど、足踏みミシンの縫い目が「味」というにはいささか適当ではない気もするが、かといってほかに適当な表現が見つからない。写真は面倒なので掲載しない。違いを表現するのに写真で比較してもらうこともいいのだが、最近はもっぱら言論がマイブームなのだ。

縫い目の長さは基本で言うところ、3センチ間計測で9針前後を標準に、そのつど生地や感覚で微調整したりする。決まりはないし、好きにすればいい。

ステッチだけでなく他にも、前あき、ベルトなどところによってコツがあるのと、ミシンの性能と生地の特性の違いも同じではないので作るうえでいろいろな手法や目指している仕上がりのイメージを表現するための終着駅は存在しない。

たったジーンズ一本作るのにもこんなにいろんな方法、ミシン機材、副資材などを含めると限りなく無限大で、自分の手作り一発勝負だから同じものは二つと存在しない。

大量生産することもなし、どこまで行っても潔く自由で完全オリジナル一点ものジーンズである。普通、このようにオリジナル一点ものジーンズが欲しいときは、専門テーラーにオーダーメイドを依頼するわけで、プロにお願いすると当然のクオリティで仕上がるだろうし、いわば製品になり、れっきとした品質保証も受けることが可能だろう。

で、俺の場合は素人ながら自分のために作るので手間隙、コストを考えすぎることもなく、好きなように出来る。問題は何事も限界があるので、自由、好きなようにといっても肝心な裁縫技能はそれなり、資材は市販されたものを使うことから、表現範囲は無限ではないし(ましてや生地自体をオーダーするわけでもない)、リベットや糸も流通する市販品を使うので大手ブランドのようなボタン・リベットの刻印などは出来ない。(ボタンの金型をつくるだけで数十万すると聞いて撃沈した)

完成度の決して高くはない俺の自作ジーンズだが、完成度を上げるための努力を放棄したわけではない。

そんな中、個人製作の手作りをアピールする上で、どんなこだわりをこめているのかと言うと、いくつかある。

オリジナル革パッチのための真鍮原版焼印を自作した。
コイツは自己満足の到達点として一線を越えたと思っている。しかもデザインはすばらしい。つくづく俺はゲイジュツカだ。(自己満足・自己陶酔は病的だ)

メインマシンは、職業用足踏みミシン戦後ビンテージ時期のもの、今では希少な部類に入るだろう。整備調整も喜んで自分で行う、いつでもスクランブル発進できるよう完全整備され、ぴかぴかに磨かれ万全の体制で待機している。

ただ、足踏みで古いから性能が高い、低いとかいうものではなく、手作業、電気を使わない人力、大量生産にはないテーラーメイドを目指し、あくまでジーンズ一本を完成するための自己管理できる範囲のミシン環境である。大げさに言うと、ここに俺の哲学の真骨頂があると思いたい。

素人手作りゆえの出来栄え残念感を極力排除するためにこのような機材と製作哲学に基づいたジーンズを作るように心がけ、自分だけのヨロコビのためだけに非生産的行動を送っている。

世間には低価格のものから高級品に至るありとあらゆる要望や経済事情などを鑑みた商品があふれている。ジーンズだってそうで、ユニクロなら2980円からあるし、古着などを探せばサイズを限定しなければ数百円で見つけることも出来る。メジャーブランドなら1万円しない価格帯からあるし、人気ブランドになると数万円のものも少なくない。特殊な場合はそれこそテーラーメイド(時価)だろう。いろんな価格帯の選択肢があって、それぞれのフトコロ事情に合わせたショッピングが出来る。

自分でジーンズを作るということはこれらのマーケットから離脱した行為であって、既製品が当たり前、そんな世間に小石を投じたいのだろうと思う。あ~めんどくさい。

自己陶酔型、病理的自己満足と自慢大会で今日も無事終わる。

















忌野清志郎  雨あがりの夜空に




バイクを手放した。

長年乗ったが、維持費と費用対効果を計算し、維持し続けることは余計な支出と判断した。

買取見積もりを複数取ることなく買った店だけに見積もりしてもらった。複数交渉は時間の浪費で無駄になる。時間をかけてかけ引きし、一体どれほどの上乗せが期待できるのか考える時間も経費と思えば相手の言い値で買い取ってもらうことはそれほど損なことでもない。

最近はあまり乗っていなかったし、2週間乗らないこともあった。仕事になると数ヶ月は乗れない。実際のところ、友人や弟などに頼んでエンジンをかけてもらって劣化するのをかろうじて免れた。

昔むかし、DT50とか、NS250とか乗ったが2スト全盛期のいい時代だった。当時、FI(フューエルインジェクション)が普及していない、めんどくさいアナログのキャブレターだった。

NSなんか、オイルが背中に飛んできて着ている上着はどうしようもなくなる。速かったけれど癖あるバイクだった記憶しかない。カタログスペックなら今の250クラスよりも無駄にパワーがあったと思う。

DTは軽く、50だったけれど6速ミッションで、時効だから打ち明けるが80キロを軽く振り切った。取り回しもよかっった。あのバイクが今乗れるなら乗ってみたいが、残念ながら80キロを振り切るようなことはないと断言できる体重になった。

今、バイクに乗ってもあのころとは違って、なにか物足りないと思うようになった。

バイクの性能は向上しているだろうから、新型を受け入れたい気もするがFIに慣れない。アレルギーまで行かなくとも、なんとなくキャブレターへの憧れがあるのかもしれない。そしてバイクに乗る運動能力の点は確実に自分のスキルは低下した。悲しい現実を受け止めなければいけない。

手放したおかげでバイク事故で死ぬ確率はぐんと減ったので余命が伸びたといえる。そして、今後は少しずつ出来なくなることが増え、行動範囲もスケールダウンしてゆく足音が聞こえてきた。

しかし、まだ生き続けることは間違いないので、これからの生き方の軌道修正が必要になりつつあるのではないかと思うきっかけにもなった。曲がり角と言うのか。

代りにというか、車に転向しようかと考えてみたが、これまたバイク同様の状況しか想像できないので止めた。車こそレンタカーで事足りる。

自転車への転向も考えた。

今のところ、ママチャリ30分10円で借りることが出来る環境があるのでしばらくはこれが手っ取り早い。5時間借りて100円なので文句あるはずもない。

バイクを処分したことで、余計な経費がカットされ、所有するめんどくさいこと、メンテナンス、納税や保険などから開放されたのである意味さばさばした。

世間では、いろんな買い物をして発表している人々が多い中、物を処分するミニマリストなるものまで、生き方、暮らし方の考え方はそれぞれあるだろう。自分はどうかと言うと、はっきりとどちらでもないけれど、どちらかと言うと物を買う消費者である。誰かの商品レビューを見て感化され、物欲も沸くし、手に入れたいと思えばたいていのものは買えなくもない経済事情もあるのでそういう意味では不満のない暮らしが出来ている。

ただ、金は湯水のように無限のものではないので取捨選択して必要なものと不要なものを見極めることやむなし、今までを振り返るとつくづく不要なものを買い続けてきたような、今となってはいらないものが身の周りにあふれ返り収まらない。

今、ミシンは5台ある。内、3台は同じ職業用足踏みで、余計なもの俺リストのランキングは上位を占めている。バイクを売り払ったので更に順位を繰り上げた。じわじわと処分の声が聞こえてきた。

ミシンは誰かにあげてもいいのだが、あげる=”上から目線”と受け止められかねない。それがたとえ善意で無償であってもである。タダほど高いものはない。ということかもしれない。あげるとなると、見返りを求められるようで怖いという常識的な感覚がバイアスとなり、このキーワードは余計に禁句だろう。

友人や知人にミシンを始めようかと思う人がいればいいのだが、いない。

近々、近所でガレージセールの出店を募集しているので買い手を探すのも一つかもしれない。

そもそも、職業用足ふみミシンを使えるスキルある人、心得のある人、挑戦しようという人、使ったことがあり使ってみたい人など、そうそういないだろう。癖もあるし使いやすいかというと、どちらかというと使いにくい。使い方を知らないとすべてのことが驚きの体験となるだろう。そういう意味でもたやすくはない。

今まで、本は相当処分したし、自家用車からバイク、家財道具など引っ越しや、経済状況を検討したとかのイベント時には何かしらの処分をした。

ものを所有するということが、これほど面倒なことがあるという実感であり、つくづくものの処分や所有するためのあらゆることについて、対応する能力が低下したのだろうかと感じ始めた。今までは、面倒なら金で解決したり、処分のために処理場まで運ぶことなどどおおおってことなかったが、最近はつくづくこう言ったことが面倒でしんどい。

反比例して、玉置浩二から井上陽水に傾倒しつつあるのは自分を振り返る意味でも合点が行く。たとえとしてはわかりにくいだろうが、これが今の感じる事実でもある。

バイクを所有していたが、一身上の都合で手放した。手放すという点でミシンも余剰なので誰かに・・・と思うが譲るからには無責任にはいかないのは承知している。今までもなにがしかの処分セールを振り返り、年のせいか、つくづくできなくなったなぁ、面倒くさいなぁ。という塩梅である。

ミシンは欲しいという人が身近に現れたら譲るというスタンスで気長にいけばいい。問題はこれからも整理していくものがあるから、徐々に進めていくことになるだろう。

玉置浩二、井上陽水と書いたが、今日の気分は忌野清志郎なのだ。

おわり