2019年8月30日金曜日

また毒を吐く(注意)

ミシンの話しを書くとき、タイトルにモデル名などを書き込むとよく検索されている。

ミシンのある特定のモデルについて調べている方たちがアクセスしたのだろうと思っているが、きっと期待した内容がなく、期待はずれでがっかりさせたか、すぐに他のページに飛んで行ったのだろう。

そもそもこのブログはHow toものではないと宣言し、商品レビューでもない。ぼやきだ。タイトルに商品名を入れると期待されてしまうことがあるようなので、検索キーワードも悩ましい。

多くの人の目に触れて読んでいただけたら・・・と思わないでもないが、稚拙な内容で時間の無駄かもしれないし、読んだかどうかわからないが訪問履歴数だけはカウントされているので読まずに違うページに飛んだ人も大勢いるだろう。ま、これも承認欲求の成れの果てかもしれない。社会の中に生きているという証を確認したいがための行動でもあるのかもしれない。

あんまり誰も見向きもしないこと、話、事象に思いをはせ、俺なりに注意を払いながら生きている。

問題はメディアである。余計なニュースが聞こえてくるから迷うし判断しないといけないときがある。だがよくよく思い返すと、ほとんどが余計なことのように思う。

最近、特にお隣さんのことが話題が多く、面倒だ。不買運動なんかするからややこしい。隣同士、不買運動などせず、購買合戦で盛り上げたらいいのにと思ってしまう。

あおり運転の主、やっぱり大阪のチンピラだった。おおさかと言えばチンピラ、チンピラといえば大阪なのだ。どうでもいいことの代表格だ。しかし大阪を愛している大阪在住者やゆかりある人たちには大変残念に思うだろう。

京アニの犯人も悪いが、だからといって関係ない俺が一方的に攻めることは筋違いであるし、そんな犯人か容疑者かを一生懸命治療している病院関係者も世の中にはいて、もし回復したら裁判で死刑判決で殺されて、もしかして病院関係者は助けた命に無情を感じるだろうか。せめて被害者遺族の溜飲を下げることになるだろうか。

渋谷の上級国民様による母子ひき殺し事件も残されたご主人を思うと、慰めるような適当な言葉は見つからないし、同時代に生きたあなたの家族は何の落ち度もないのに無情にも殺され、罪深い俺はのうのうと生き延びている。


たぶん、人の痛みがわかると生きていけないのかもしれない。もしかするとわからないままのほうがいいのかもしれないと思わないでもない。外科医なんかがそんな代表格だろう。

あおり運転をなくすには速度リミッターをつけたらそれ以上速度が出ないから大事故にもならない。のろのろ運転でみんなハッピーだ。約束の納期に間に合わない?無理して急いで事故するよりも良いじゃん。前の車が遅いからイライラする?自分も遅く走ればいい。遅くっても”走ってる”。

流通麻痺する?そんなに命と引き換えの流通が大事か?

あなたの脳が麻痺しているんじゃないの?ばっかじゃないの?・・・といういつもの毒っぷりで今日もクーラーの効いた部屋ですずしく過ごしています。

生きていれば、誰かが少しでもいい解決策や目指すべきよりよい方向が見つかるのではないだろうか。


このブログは基本、文章のみで構成しているが時々写真や動画のリンクを掲載したりしてほそぼそと続けている。

そして誰にも興味をもたれないような内容、文章表現、出来事をあえて取り上げ、毎日を過ごしている。ほぼ個人的な限定されたことだけを彫刻している。


私たちは生物として唯一、自分の命に力を及ぼすことが出来る。そして哲学がある。宗教があり文明がある。人を傷つけたり殺すことはたやすくできるし、嫌いなニュースを見聞きする限り、毎日世界のどこかでそんな事象が起こっている。

最近はとうとうミシンの整備とジーンズ作りが当たり前になってきた。うまく作るつもりは優先順位は低いが、なんとなく自己満足の領域を達成したという満足感は得られるようになった。俺のブログは誰からも文句一つ言われず、勝手気ままに書きたいことを書き、それはぼやきと自慢話で構成されている。

これでもかと言うほど、ぼやいて自慢するほどみっともないこともないはずだ。誰もついてこれないだろう。ふふふ。。。

おわり。











ノリタケとミシン  ビンテージ以上、アンティーク未満 

沖縄の小橋川清正さんという陶工の器を買ったのはもう30年近く前のこと。5年ほど前、久しぶりに再訪したら息子さんもあとを継いでいるようで、息子さんのも買った。

確か、珊瑚屑が土に練りこまれているという独特のざらつき感がある、味わい深い良いやちむんである。当時はまだ何とか私の手の届く価格帯で販売されていたと思うが、最近は評価が高まるのと比例しているようだ。

伊万里焼にも何がしかの親近感があって、気にとめたりもしたがコレクションはしていない。信楽焼き、備前焼なども好んでいるのだが、買い集めるほどのことでもなく日常使いの焼き物として何点か所有して好んで使っている。たぶんのめりこむと沼にはまること間違いなしだ。


最近、近所でレトロなものを扱う小さな雑貨店を見つけた。
訪れると、軒先の展示品に吸い寄せられ店内を覗いたりもする。
この店、実は半年ほど前、レトロなコーヒーカップとソーサがあったので買おうかどうしようか迷った。そのときは買わずに帰った。

ワールドカップサッカー侍ジャパンではないが、決めきれない。

またまた(結局、合計3回目)訪れたときはもうすでに売れたようだった。

しかし、割れた洋皿の代わりを探してもいたのでノリタケらしきデザインの皿を見つけた。手に取って見るとやはりいい皿のよう。

店のご婦人に声を掛けた。ご婦人はとても品ある口調で説明してくれた。年配だが美しい女性だ。

聞くとやはりノリタケらしい。裏印にあるマーク、良く見るとノリタケとある。自分は以前にもこの店で器を買わせてもらったことなどを話したり、この店では好んで同時代の器を取り扱っていることなどを伺った。

中古も扱うらしいが、今回俺が手にしたノリタケは傷のない新品、いわゆるデッドストックだったようで確かにつややかな釉薬加減だ。

デザインについては好みが分かれるだろうが、戦後ビンテージといわれる時代、1945年ごろから1965年くらいの間のもの。この時代を眺めるとある一定の傾向のようなものもあって、今の皿には見かけることがないようなデザインを見つけると嬉しい。専門家の表現を借りるとレトロモダンだそう。

持ち帰って調べたら、1955年とか、1963年あたりのものであるということのようだった。50年以上の歳月をかけて、いまだに新品の状態、しかしデザインは今には見ない。ある意味タイムスリップした世界を見ることが出来る。

今市場に出回っているビンテージ物はもうすでに製造されておらず、逃すと同じものを見つけることは難しい。ネットで似たデザインは見ることもあるが、いいと思ったときに買うべきなのかもしれないとも思った。



新しい物も悪くないが、出来立て感満載のピカピカしたものはちょっとまぶしくてしんどくなるときがある。本などもそうで、書店のピカピカした本がしんどい、と開高さんも書いてたな。20代にそんな文章を読んで、意味がわからなかったがおっさんになるにつれ開高さんの表現がじみじみ通感するようになった。



ただ、「アンティーク」となると若干ニュアンスが異なる。
アンティークは多くの人達が評価したりしてある一定の「相場価格」のようなものがある。singerミシンのように、ヤフーオークションでも足踏みミシンを見ると他のメーカーに比べて高価なことが多い。



アンティークはただ高価だという印象で敷居を高くした世界でしかないので日常使いのものとしては桁違いで自分にはふさわしくないだろうと自戒をこめて思う。

アンティークまでは行かないけれど、ちょっと背伸びして、レトロ、ビンテージくらいがデザイン・価格もちょうどいい。

戦後の同時代、所有する俺のミシン、singerとjanomeは2台とも当時物で足踏みミシンだがビンテージ以上、アンティーク未満と言ったところだろうか。昭和30年から40年ごろのあたりの製造である。このころは「もう戦後じゃない!」とか言っていたそうな。

陶器もミシンもせっせと作って、世界に輸出したりした時代だ。いかにいい製品を作るか先人は必死に苦労と研究を重ねたのだろうと思う。そして事実、世界制覇を果たしたと思うし、その先人のおかげでいろいろ楽させてもらっているように思う。

今活躍している世代の人々があとに続く人にそんな風に思っていってもらえる時代が来るのかどうか、いや、きっと賞賛の嵐の未来があると思いたい。

ただただ先人に頭をたれる。

おわり







2019年8月10日土曜日

Is This The World We Created...? Freddie Mercury & Brian May  ~今でもこの歌に感動を覚えるのは俺だけではないだろう~



大きくて重い。古くて時代遅れ。

今のメインマシン、ジャノメ761は引き取り限定を条件に野口さん3人と引き換えに手に入れた。

引き取りには俺力、折りたたみカート。交渉して頭部と台は別の日に分解、それぞれ運んだ。2日がかりだった。

人の年齢にたとえると、55歳から60歳前後か。俺よりも少し先輩だが絶滅危惧種に指定された、社会のお荷物で邪魔者だ。どうしても自分の置かれた状況と重ね合わせてしまう。

もう、社会に役に立つことがないと言われ、世間から邪魔だからと処分される。リサイクルショップに電話して来てもらい見せられた見積もりは、逆に引き取り料を請求される。



大切な祖母の形見だったけれど、置いておく場所がもったいなくて、邪魔で邪魔で仕方がない。お金を払ってでも引き取ってもらいたい。そんな「物」に成り下がった。

かつて、祖母はこのミシンでテーラーの下請けの仕事や子供のための服を仕立てるためにフル稼働し、暮らしが一杯一杯だった・・・。そんなどこにでもあったありふれた家庭の片隅に次第に使われなくなり埃が纏い、固着して動かなくなる。

注油しながらプーリーをまわせば次第に回復するはずだが、スイッチポンのコンピューターミシンしか知らない忙しい現代人に「足踏みミシンの機械」は別世界、わかるはずもない。

場所とるし、電気じゃなく、足踏み? 
ところどころ錆びてる~。キタネー。

→邪魔なので処分処分!・・・となる。

・・・今の俺じゃん!!


世界視野でみると、電気要らずの足踏みミシン。構造はオール金属なのでメンテナンスはうれしい万国共通。電気・半導体要らずの潔いアナログっぷりは自転車とか、ヨットに通ずる。
どちらも電動やエンジンなど動力のものもあるが、人力、風力なんかだけで動くものとして共通しているし、現代も細々と脈絡はある。

ただ、ミシンに関しては、電動電気モーターに取って代わり、足踏みミシンはなくなるのかもしれない予感がする。なくなるべくしてなくなるのか、社会から不要とされるのか、事実、洋服を足踏みミシンで作って販売していますなどと、見る影も乏しい。ないわけでもないが、企業として受け継がれるか、果たして疑わしい零細企業しか見ない。

アパレル業界は衰退産業の雄。しかし、必ずしも落日をただ見ているだけではないだろうし、未来ある人々の活躍と逆転のためのパッションを見てみたい。安いユニクロやH&Mで喜んでいるばかりの青年を見るのは悲しい。

こんな国を夢見て一生懸命にやってきたのかぁ?

世界をミシンと読み替えて、子供を私たちにすると、今のミシンを憂う替え歌として聞けなくもないなんとも切ない歌になる。(世界をアパレル、子供を業界関係者でもいい)

フレディに・・・黙祷。。

プライベートデニム  歪んだステッチに乾杯! 

夏真っ盛り。

いまごろ短パンの必要性に迫られた。

前に作ったジーンズ生地のハギレが残っていたので型紙をあててみるとなんとなくぎりぎり短パンであれば作れそうだった。

短パンならレギュラーサイズの丈が短いだけで、構造は同じだからいい練習にもなる。

水通しせず、縮みがあるのはある程度わかっているので問題ないだろう。

仕様は
1)キバタ(防縮加工なし)、濃紺。
2)いつものセルビッジ。縫い代2センチ。良くあるのは縫い代1センチだが、見た目けち臭いので俺は2センチだ。
3)オリジナルタグ。在庫品薄。
4)完全オリジナル革パッチ。
5)ドーナツボタン、リベットは普及品。
6)後ろポケットは隠しリベットなし、オリジナル波ステッチ。
7)ステッチは基本20番と30番のポリエステルスパンン糸、グレー。
8)脇ポケット袋はいつもの安~いシーチング。
9)丈は最終、生地の残りを見て膝下で決定。裾を折り曲げてセルビッジを見せびらかす。

こんなところでしょう。

初めて作ったデニム初号機は2018年初春だった。

あれからデニムはジーパンを2本、オーバーオール一本を縫い上げた。今回の短パンで合計、5本のデニムパンツを作ったことになる。

素人、しかもミシンを整備してからのジーパン作りももう板についたもので、ミシン整備がたまらなく深く面白い。埃を掃除して注油するところからジーパン作りは始まる。

時に、そろそろ誰かにあげてはいてみて欲しいと思うようになってきたので誰かにでもプレゼントしてみてもいいのかもしれない。

仕上がりの印象は、ステッチがゆがみまくっている。到底プロダクト製品とは違う。うまく出来ないが、うまく作ることほどつまらないものはないと強く確信している。

既製品はどこの誰が作ったのかわからないし、わかったところで俺のために作ってくれたものではない。買ってくれそうな人に、上目遣いで買ってほしそうな匂いぷんぷんさせて陳列されている。

俺はもうジーンズを自分で作り、自分のサイズに完全フィットされたオリジナル、プライベートデニムを履く。

ケチな量産品を喜んで履いている諸君、ぐねぐね歪んだステッチはいいぞぉ~。

今夜も歪みを見て一杯やるかー。