近所のドラッグストアなどで使い捨てマスクが売り切れ状態になり、続いてトイレットペーパーが売り切れた。ほどなくしてトイレットペーパーは見かけるようになって平常通りに戻った感じだけれど、相変わらず、今日現在もマスクは品切れ状態が続いている。
売られていないマスクを探しても見つからない。まれに売られているマスクを見つけたら50枚入りで3980円だった。こんなに高いと手が出ない。こんな状況でも普段マスクをしている人がいるのが不思議である。
まあ、手に入らないマスクなどしても仕方ないし、そもそも人込みに行くような予定もないのでどうしてもマスクが必要な状況になるならマスクくらい手作りしてやる!・・・と思ったが、とうとうマスク用ゴムまで売り切れ出す始末。考えることはみんな一緒なのかも。
ある手芸用品店を覗いたところ、あった!と見つけたのは丸ゴムだけれど固い、耳が痛くなるゴムだった。
手芸用品店も生活がかかっているから、ここぞとばかり、需要と供給からか売値を吊り上げる。そう思うと納得できる部分もある。しかし、散歩途中に見つけた別の手芸用品店では通常価格で販売されていた。こんな時でもきちんと商売されていることに感謝したい。
マスクゴムを販売している手芸用品店の多くは短く切り分けて数本ずつ束ねて袋詰めして割高な価格で販売していた。
女性ならストッキングをひざ下くらいから縦に1センチ幅でカットするとマスクゴムとして代用できるそうな。
ついこの間、中国で使い捨てマスクを拾って集めているニュースが流れ、不潔だ!と言ってた報道があった。
そんな日本ではマスク不足のため、使い捨てマスクを洗って使いましょうという始末。中国人の行動を批判してるくせに、使い捨てマスクを洗えば何回か使えるぞ!という情報もどうかと思うが。
先日、中国・武漢のことを書いたが再び1991年の中国の旅を思い出して書く。かれこれ30年近く前のこと。
俺は、友人と旅をする予定をしていたが、友人が都合つかなくなったということもあり、一人で行くことにした。
はじめての海外一人旅、初めての社会主義国・中国だった。
縁もゆかりもないわけではなく、親父が上海生まれなので行っとくか~てなわけで。
バックパックを背負うのだから、日本人御用達のこれでしょう。 |
往復フェリーを使い、節約した旅行になった。当時は金もなく、節約することで中国を長く見物出来たらと思った。今金があるような表現に読めるが、今もない。あの当時よりはある。あるのか、無いのかどっちなんだと言われると、無い。(笑)
鑑真号という大阪から上海へのフェリーが就航していて、片道20700円だった。今でも同価格帯の新型船が就航しているそうな。
2月28日、上海に上陸したがあいにくの雨で、大陸の気候はこんなにも冷たい雨を降らせるのかとしみじみ感じた。外灘を歩くとテレビで見たヨーロッパの街並みのようなレトロビルが並ぶ外国だった。
当時からそびえたつ上海マンション(上海大厦)は1934ごろに完成したとウィキペディア情報。
親父は上海生まれで宝安路25街というところに家があった。
そして上海マンションは住んでいた家の近くから見えたと言っていた。
俺が旅をした当時、資本主義経済が当たり前の世界から、全く知らない社会主義国の旅は驚きの毎日だった。街中に走る車は少ない。一般市民の多くは自転車、鳳凰号とかで、一台250元くらいらしい。その自転車は日本でいうところの荷物運搬に使われるような、フレームのしっかりした重量も相当ありそうな漕いでも快適に走るというには程遠い。(実際、蘇州でレンタサイクルして市内を走った)
たいてい、どんな店に入っても店員(服務員)は、機嫌が悪く、何か尋ねてもそっけない。ホテルのフロントで部屋はあるかと尋ねても「没有」(メイヨォ~ウ)とぶっきらぼうだ。どう見ても空き部屋はあるはずだと疑ってしまうが、無いと言われたら仕方がない。そんな横柄な態度は当たり前。まだ、中国人民のほとんどは資本主義経済を知らない時代だったのだ。愛想もくそもない。
当時の中国は平均所得も日本に比べ低いし、物価も日本の何分の一かわからないくらい低い。
しかし、そんな圧倒的優位だったはずの日本と中国の経済格差は実はこの30年足らずで逆転とまではいかないだろうが、相当追いつかれた。産業分野によっては完全に引き離されたものもあるという事実を認めなければいけないなと考える。
昨今、日本は中国からの観光客の皆さんが落としてくれるお金を当てにしている。これも30年前当時の中国が今の日本の姿だと言える。
こんなの考えられないような時代だったはずだが、すでに彼らは日本で買い物するのが安いと感じるから旅行してくれている。今日現在においては新型コロナウイルスのため旅行が出来なくなっているが、もうしばらくは静かに過ごさせてもらえるだろうか。
30年前の上海は未だ、ケンタッキーフライドチキンの一号店がオープンしたばかりで、中国人所得からは高めの料金設定だった。多分普通の中国人は入ることはできないような高級店の印象だった。今ではそこら中に店舗展開している。マクドナルドもそうだろう。
中国旅行での食べ物は俺の口に合った。何を食べてもうまかった。しかし、トイレだけはいただけない。残念な状態であった。
ひどいトイレ事情を忘れさせてくれるような、人々との交流は何よりも刺激的で記憶に刻まれた。
悪いやつもいる、いい加減なヤツもいる。しかし日本人に負けない、あるいは日本人にはない、人間力のある魅力的な人々もたくさんいた。そんな人々の普段を感じる機会に恵まれ、旅を通じて中国の人々に敬意を持って接したいと思った。今でもそう思う。
上海に上陸して船で武漢に行き、また船で南京、そこから鉄道で蘇州、のち上海。上海から鑑真号で帰国した。およそ1か月の行程だった。滞在中の出来事やほとんどのことは俺の記憶の中にだけある中国である。
政治的には色んな問題があって、好き嫌いで物を言うヤツが時々いるが、政治家でもないのにお隣さんのことをとやかく言うのはよした方がいい。むしろ、困ったときにはお互い様という気持ちを前提に言葉を選んでほしいものだよ。
初めての海外が中国で、今でも中国のことは心のどこかで気に留めているし、大国であり、歴史があり、飯もうまい、お隣の国として贔屓にしている。親父が生まれ育ったというのも何かの縁だと思うがせっかくの縁も戦争が分断した。戦争は残念だったが、人と人の往来は途切れず、今でもたくさんの中国の人は来てくれているし、仕事で住んでくれている人もたくさんいる。
色んな意味で彼等から教えてもらうべきことは尽きることはない。
湖北省武漢の思い出した出来事ダイジェスト。
食べた料理がうまかった。どれも唐辛子を大量に使った真っ赤な皿ばかりで驚いた。食後の1時間は唇のしびれが収まらない原因が花椒だった。
散歩中、大道芸で猿回しをしていたので立ち止まって見てたら目つきの悪いやつに見物料をよこせと迫られたのを思い出した。大した芸もできない猿で、動物虐待のようでもあった。
乗る船を案内してくれた親切なおじさんに胸ポケットに入れていたたばこを盗まれた。おじさん曰く、案内料らしい。
漢口駅の近所をうろついていると、日本語で話しかけてきた老人。
招待所の一室でベッドで横になって本を読んでたらフロント係の女の子が無断で室内に入ってきて、黙って帰っていった。3人くらい入れ替わりに入ってきたのは闇の風〇嬢なのかもしれない。
中国人青年と知り合って、家庭に招かれ飯をごちそうになった。青年のお姉さん家族と同居していた。義理の兄は写真家らしく、キヤノンAE-1を大事に使っていた。
今日はこの辺でおしまい。
最後まで読んでくれたあなた、どうもありがとう。
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