2019年11月6日水曜日

今日もいい一日  記憶の断片  無責任な発言でいいのか

聞いてほしい、読んでほしいという承認欲求と、自分への整理のためなのだが、書いたからと言って正しいかどうか、絶対ではないので、今思う自分の中の事実だけを書くように努めているがそれもまた、もしかすると揺らいだりして気が変わることだってあるんだろうと思う。めんどくさい。

PCがあって、キーボードを打てば文字を入力できる。ただ、それだけのことなのだから深く考えずに打ち込んでいるが、なぜか白々しい。

ジーパンづくりも、いかにして作るか、どんな仕上がりになるか、サイズは?、洗うとどんな風になるかなど、どうでもいいことに時間を費やしているのは趣味(ホビー)の世界に没頭できているれっきとした論拠だろうと思う。

ミシンを整備するのにも、埃を払い摩擦する部分に注油するのだが、ひたすら回転運動などを見ながら滑らかに動くギア、軸などを見てニンマリしているだけだ。誰にも関係ないことだし関与せず関与されず、自分だけの世界だからひたすらトンネルの中を邁進している。井戸を掘るような作業にも通ずることかもしれない。ただ、トンネルや井戸は人々の役に立つが、俺のは誰にも役にも立たない。

己のあるがままを受けとめる、みたいな。

ボヤキと文句を繰り返し声高に、世間に発信しているのだが誰かを傷つけてしまっているかもしれず、もしこのブログ発言で傷ついた人がいるなら勝手に傷ついていろと言い、無責任にも適当に書いていることをお知らせする。

もしかして不特定多数の人の目に触れ、読んでくれた人がほんの少し気が楽になるか腹の立つことに溜飲を下げるようなものであってすればと思ったりもする。

自分の中にある漠然とした、人々の役に立ちたいという基本欲求をブログを書くことで提供しているつもりになっているのかもしれない。勘違いかもしれないし、めんどくさいことでもある。

時に記憶が断片に思い出し、ハッとする。


もう、10年以上前、知人が自殺した。

うつ病を患っていた。「うつ病」ということで俺は自分にその知人の死を受けとめるようにしたと思う。今までもかかわってきた身近な人々が色んな最後を迎えた中、その知人とはかなり近い関係だったもんだから、今でもなにがしかの痕跡があるし、俺の中ではまだ死んでいるのではない。残され生き続けると、少なからずこんな経験を積み重ねていくもんだろうというのがここ最近の到達した通過点の一つだろうか。

自分の中で断片がつながり、ちぎれ、また違うつながりができ、記憶が形成される。しかし知人とかかわった人物、人となりは俺の中で元気だったころの姿がある。いいやつだった。

ここでは自分の氏名を明かさずに好きなことを書いている。しかも、近い人のことも含めて、身の回りの出来事を書いている。事実をなるべく忠実に書くようにしているが、あくまでペンネームもなく、公表するような社会的地位もない。対象の人物は特定できないようにしている。であるから、無責任な内容になっていること、具体性に欠けるかもしれないということ、無責任放題の一方的な発言であることに批判があっても一切の反論もできない。する気もない。

アホはアホなりの人生があるし、貧乏から金持ちまでいるがどんな奴もいつか死ぬだろう。死なない奴はいない。死ぬまで生きるだろう。そのことは間違いなさそうだ。



















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